"競技かるた"に関する私的「かるた」論
番外編
フィニッシュ論
〜勝負の決着のつき方〜
Hitoshi Takano May/2018
しばらく前に、自分のお手つきで勝敗が決する試合が二試合続いた。さらに一試合挟んでその次の試合も自分のお手つきで勝負が決してしまった。
「自分のお手つきで勝敗が決する」と書いた以上は、当然私の「負け」である。しかも、最後に残り枚数を増やしての敗戦である。
しかも、読者の予想のとおり(?)、自陣でのお手つきである。
負けは、どんな負け方をしても「負け」である事実に変わりはない。
しかし、私にとって、一番「嫌」であり、「悔しさ」の残る「負け」が、この自分の自陣お手つきの負け方なのである。
今回は、この「勝負の決着のつき方」に焦点をあてて、「フィニッシュ論」と名付けて論じてみたい。
(なお、運命戦は本稿の対象外とする)
I.  自身の「負け」
(1) 相手の取りによる決着
A)相手の自陣(こちらから見ての敵陣)
このパターンはわかりやすい。相手がリーチ(ラスト1枚)というシチュエーションである。
相手が自陣をツモって勝つ(私の負けが決定)。リーチ一発のときもあれば、自陣の守りが奏功してしばらくのあとと
いうこともある。こちらの陣の枚数が少なければ、攻めにいくこともあるが、だいたいは守っていることが多いので、
やむをえない感がある。自陣の出が続いているとそろそろ敵陣が出るのではないかと思うが、この感覚がはずれて自陣を
取られてしまうと後悔もある。
なんにしても、こうなるまでの間にそういう状態にした自分が悪いのだ。
相手にしてみると、1枚しかない自陣を抜かれるのは、運命戦になったときに出ない札を送られるリスクもあるので避けたいという思いはあるだろう。
一方、攻めがるたの相手であれば、いつでも敵陣の札くらい抜けると思っていることだろう。
リーチのかかった相手に自分の札を守られて負けたときは、相手の自陣の札の取りがよほど遅くない限り、「しかたない」という感じになる。
ある意味、精神衛生には悪くない負け方なのかもしれない。
B)相手の敵陣(こちらの自陣)
だいたい負けるときは、相手陣の札の数よりも自陣の札の数のほうが多い。相手がリーチをかけているときは、こちらには
一定数の札があるわけだ。当然、確率論でいっても、こちらがでる可能性が高い。相手も攻めてくる。そこを守ってしのぎ、
相手陣が出ようものなら取りにでなければならない。
とはいえ、守りに重点がかかっている状況で、守りきれずに敵に自陣を取られて負けるというのが、ここで対象としている負け方なのだ。
必死に守っているのに抜かれて負けるのは悔しい。悔しくても、相手に攻められやすい状態にした自分が悪いのは、A)のパターンと一緒である。
守りきれなかった悔しさはあるが、気持ちはともかく頭では受け入れざるをえない負け方である。
(2) 自分のお手つきによる決着
a)敵陣をお手つき
このパターンには、相手が二枚残りで自身のダブル(含むカラダブ)で一挙に決着がつく場合というケースもある。もちろん、相手のリーチ状態で
相手陣を払ってのお手つきというケースもある。
相手陣に友札があれば、攻めに行くのが「攻めがるた」選手の性(さが)である。負けた悔しさがあったとしても、自らの信念を貫いてのミスであれば
気持ちとしては許せる部分もあるだろう。相手が2枚でこちらが1枚で一挙に決着がつくのはさすがにショックもあるが、相手にリードを許した上での
乾坤一擲の攻めによるミスであれば、それは勝負の綾とあきらめるしかないだろう。この攻めが奏功していれば逆転に結びつく大きなポイントであるのだから、
お手つき終りは反省したとしても、気持ちとしては精一杯やったと思えるのではないだろうか。
ただ、私にとっては結構へこむ負け方である。
b)自陣をお手つき
これは、最悪の負け方だと思っている。あぶなそうな札は、相手にこそお手つきをしてもらわなければならない。
そういう逆転の芽を自ら摘んでしまうようなものだ。
前の試合の負けを引きずってはいけないのだが、結構、ひきずる負け方である。持ち札を増やして負けるということも気持ち的に許せない。
団体戦などで次がある場合は、絶対に素早く気持ちを切り替えなければならない。
自分の負けのパターンでは、最悪は(2)のb)、これだけは避けたいと思っている。それゆえに、このパターンの負けを二試合続けたために
本稿を書いているのだから、「引きずってはいけない」と書いていながら、思い切り「引きずって」いるのである。
「あぁ、早く忘れたい!」(心の叫び)
II.  自身の「勝ち」
(1) 自分の取りによる決着
A)敵陣
勝つときのパターンとしては王道の勝ち方である。相手に多少粘られようと、敵陣を抜いて勝利をつかみ取りたいものである。
先行逃げ切りで、相手陣の札をできるだけたくさん残して、フィニッシュは敵陣の札を取って終わる。常にめざしたい勝ち方である。
B)自陣
手元に残ってリーチがかかる場合もあれば、敵陣に札を送って自らの意図で残してリーチをかける場合もある。
いずれにしても、がちがちに守っている相手からは抜かれたくはない。攻められているのであれば、こっちも攻めているので
抜かれてもやむをえない部分はあるが、遅く抜かれるのはもってのほかである。
抜かれた場合は最後まで出ない札を送られる可能性もある。運命戦にはしたくない。自陣がでたら、そこはがっちりキープして勝利を確実にしたいと望む。
キープできなかった場合は、ひきずってはいけない。敵陣を攻めて勝利を決める気持ちは大切である。
相手につけいる隙をみせないためにも、敵陣を攻めているとしても自陣が出た場合はキープしたい。
特にリーチ一発はリードが大きいほど確率論的には可能性が低くなるが、感覚がさえてちゃんと守って取れたときは、嬉しさが倍増する。
倍増するとは言ったが、勝ちは勝ちである。勝負師としては、たんたんと勝利を勝ち取り、喜びや嬉しさは表面にださず心の奥にとどめておくのが
本来の姿なのかもしれない。
(2) 相手のお手つきによる決着
a)こちらの自陣(相手から見ての敵陣)
パターンとしては、ダブルのお手つきの可能性もあるが、ほぼこちらがリーチをかけて残した(残った)一枚に対しての相手のお手つき決着と
なるだろう。
相手も逆転を狙うには、攻めざるをえないシチュエーションということで、果敢に攻めてきてのミスということになる。
攻められて、一瞬肝を冷やすが、お手つきとわかり、勝利が確定したことでホッとする。
リーチに残す札を、お手つきの危険性の高い札を意図的に残すことはほぼないが、自陣を取って二枚から一枚になったときは、下手すると二字決まりや
三字決まりが残ることがある。
こういうときは自陣のお手つきだけはすまいと、敵陣を攻めていることが多いので、自陣の札の音であわててはいけない。
その上で、相手がお手つきをしてくれたのであれば、心のうちでは「ラッキー」と快哉を叫んでしまうのである。
とはいえ、心のうちは表情に出してはいけない。相手に対しての礼儀でもある。
b)こちらから見ての敵陣(相手の自陣)
相手は、自陣の守りを固めている。意識は守りにあるだろうし、当然、お手つきを気をつけるべきと注意もしている。
しかし、一枚取られれば負けてしまうという状況では、自陣を取ろうという思いが強くなってしまう。そこにお手つきの落とし穴がある。
こちらが、お手つきに気をつけながら、誘うように手をだすこともあるし、相手が自分で転んでしまうこともある。
前者は「仕掛けた」という感覚で、自分が勝利を呼び込んだという思いにもなるが、後者は僥倖に感謝するのみである。
どちらでも勝ちは勝ちで、勝敗の決着がついて、自らの勝利を確認したときは、やはり「ホッ」とするのである。
自身の勝ちの場合の最善の勝ちは、やはり敵陣を取っての勝ちであろう。
相手のお手つきで勝利が転がり込むのは、肉体的にも精神的にも負担は少ないが、達成感の観点からすると物足りなさがある。
札を取って終わるのであれば、自陣の札を取って終わるよりも、敵陣の札を取って、自陣の札を相手に送って終わるという連続の動作で終わることに形式美を感じるのである。
「あぁ、スパッと敵陣をきれいに抜いて、勝ちを決めたい!」(心の叫び)
「フィニッシュ論」というタイトルの割には、あたりまえすぎる分類と筆者の感覚による部分の多い文章だったが、ご容赦いただきたい。
また、冒頭でも触れたが、運命戦は本論の対象外である。運命戦でのフィニッシュを論ずるとまた論点が変わってくるのでご理解いただきたい。
(運命戦関係の記述にご興味のある方は、以下のリンク先をご参考までにお読みください。)
1-1論(運命戦は何故生じるか?)
(TOPIC 第60回) 運命戦
実際、勝負を決するときにはいろいろな状況がある。練習の場であるときもあれば、団体戦やタイトル戦などの重要な試合の場合もある。上記の分類は便宜的なものにすぎないが、その一試合一試合には、様々な背景やドラマがある。そのドラマを彩る要素の一つがフィニッシュのあり方なのだと思っている。
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