私の“かるた”に影響を与えた言葉 (III)

「押さえにいっちゃダメじゃないか!」

Hitoshi Takano SEP/2009

 TOPICのシリーズの2001年4月の項で、 「Trauma」というのを書いたことがある。
 端的にいえば、初心者のころの先輩の指導におそれをなして、それが知らず 知らずにトラウマになっているという話しであるが、この「押さえにいっちゃ だめじゃないか!」というのも、私のトラウマになっているかもしれないI先輩 の指導中の言葉である。
 高校の時にクラスマッチという大会の中で百人一首があり、机の上での源平 戦をやっていた私には、やはり札を押さえて取るという癖のようなものが残っ ていたのではないかと思う。
 初心者として払いを習い、先輩との練習でも一生懸命払うように努力をして いたが、どうしても押さえにいってしまうことがあった。そうするとこの言葉 が飛ぶのだ。

 「押さえにいっちゃダメじゃないか!」

 本人曰く優しい指導も、1年生と5年めの先輩との間では、1年生には厳し い叱責にしか聞こえない。余計に縮こまり、また、叱られる。

 「攻めなきゃダメじゃないか!」

 だいたい、敵陣をきちんと攻めに行こうというときは払いを心がけている。 攻めていれば叱責されることはないが、I先輩はなにせ上段が多い。上段の 真ん中においてある札などは、つい、昔の感覚で押さえにいってしまう。
 攻めに行っても、押さえにいくのは叱られた。
 最悪なのは、守りにいってなおかつ押さえにいった場合だ。
 特に、自陣の左下段の払いがなかなかできなかったせいか、感じの遅さのせ いで、友札であっても決まり字が聞こえてからの反応では、敵陣に手が伸びる ことなどなく自陣の左下段を押さえに行く。
 攻めに行っていないことで叱られ、押さえにいったことで叱られる。
 ここで、叱られたことによって、練習で克服して、攻めて戻って払えるよう になりましたというならば、話しとしてはきれいなのだが、そうはならなかっ た。
 すっかり、自陣の左下段の取りが苦手になってしまった。
 攻めに来ている相手に取られる分には仕方がない。その代わり、ほかのとこ ろで取ればいい。どちらかというとそういう思考に陥ってしまい、苦手を克服 する努力をしなかった。
 特に外側の端に近い札はうまくとれない。内側中央に寄せた札は、かろうじ て払えるという感じだった。
 今思えば、外側の端の払いを札を置いて何度も何度も繰り返せば、もっと上 達しただろうにということだが、あとのまつりである。
 トータルに考えて、苦手なところを補うべく他の部分で工夫をしたといえば、 聞こえはいいのだろうが、実際には都合の悪いことに蓋をしてしまったという ことでもある。

 まあ、ともかく、この言葉の影響で、私の中には、“押さえること”=“よ くないこと”という価値観が生まれてしまったのである。
 これは、私のかるたに対して大きな影響を及ぼしたことである。

 しかし、何年か取っていき、A級にもあがり、A級の選手の取りを目の当た りにし、体験し始めると、A級選手は「押さえ」がうまいことがわかるのである。
 特に自陣の押さえがうまく、相手の手の軌道にはいってブロックしながら 押さえる。
 出札を押さえているので、一緒に払って、札押しだ、札直だ、どこから払っ たなどともめたりしない。出札を押さえているから札直に決まっている。
 右下段・右中段での押さえにも感心したが、一番感心したのは、左下段の押 さえである。結構な終盤でも、きれいに押さえて、それでいて遅いわけでは ない。
 相手との相対的なスピードを認知しているのだ。
 押さえているかと思うと、一転、鋭く払う。
 自陣の取りにおいて、払いも押さえも自由自在に使い分けている。

 これらの技芸を見ていて、やっと押さえてもいいんだと思えるようになった のだ。
 それ以降、相変わらず左下段は下手ではあるが、時には押さえることも、 時には払うことも、あまり意識せずに臨めるようになった。

 要は、臨機応変に札が取れるようになればよいのである。
 いまだに臨機応変に札が取れてはいないが、振り返れば、「押さえにいっ ちゃダメじゃないか!」の言葉が、私が他人のかるたを見て、そして、自分 のかるたを考える上で果たした影響はたいへん大きかったと言えるのである。

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