TOPIC   "番外編"

昭和のかるた

〜新入生への自己紹介〜

Hitoshi Takano JUN/2016


 今年の慶應かるた会の新入会員は約30名という。もちろん、まだ全員とは会えていないし、名前すら知らないメンバーもいる。
 とは言うものの、すでに何人かの新入生とは対戦した。
 新入生との対戦・練習のあとには、「何か質問はありますか?」と私のほうから尋ねることにしている。こちらから、 一方的に気付いた点をしゃべるよりは、自分の頭で考えさせたいからだ。
 すると、現在の慶應かるた会の現役とかるたのテイストが違うことに気くのだろうか、それとも違和感をおぼえるのだろうか、 左上段の隅3枚を除いて、上段を目一杯利用する私の定位置について質問してくるケースが多い。
 もちろん、丁寧には答えるが、最近では、「私のかるたは、昭和のかるただから、、、」と答えてみる。 反応は様々だが、どちらかというと意味がわからずキョトンとしている感じが多いように思う。

 さて、「昭和のかるた」とはいったいなんだろうか?

 三つの観点で考えてみたい。

 一つ目は、慶應かるた会の内輪の話である。

 私が慶應かるた会に入会したのは、慶應義塾大学に進学した昭和54年4月である。私が競技かるたを始めた頃、 先輩たちの中には、上段の中央に札を置いたり、左上段は左隅から3・4枚中央にズラして中央寄りに札を置く先輩が 多くいた。結局、私はこれら先輩の定位置に影響を受けたということである。先輩の真似をして、 そのあとで自分なりの工夫をした結果が今の定位置になっているのである。
 聞いたところによると、昭和48年に会の学生責任者だった先輩が、敵陣の右上段を攻める時に自陣の左上段を引っ掛けてしまう お手つきをするので、「攻めがるた」を標榜する慶應かるた会としては、敵の右上段の攻撃のために自陣の左上段の定位置を ズラすということを、後から入ってきたメンバーに伝えたところ、そのスタイルが定着していったということである。 もちろん、そうでない選手もいただろうが、このスタイルは「攻めがるた」の理念とともに脈々と受け継がれることになったのだ。
 しかし、平成になると慶應かるた会でも、上段の中央に札を配置するスタイルを定位置にする選手は極端に減少する。 一時期、会員数が極端に減った時期に指導する立場の選手が上段も普通に左右に分けるタイプの選手だったことにもよるのだろう。 だいたい、「攻める時に引っ掛ける」と言っても、練習によって技術を磨けば、引っ掛けないかるたが取れるはずである。 問題点を練習で克服するか、他の工夫によって克服するかの相違なのであるが、私のかるたは後者の色が強いと自己分析している。
 私のかるたが、「昭和のかるた」である理由の一つは、慶應かるた会の昭和期の定位置傾向という歴史の中にあるのである。

 二つ目は、かるた界全体の大きな流れに関する話である。

 「攻めがるた」は昭和48年には慶應かるた会内でもいわれていたことであるし、 一般会においてもその重要性は説かれていた。おそらく、正木一郎永世名人(昭和30年〜昭和39年の10期に渡り名人)の活躍の基盤に ある「攻め」の考え方がいろいろな選手にじわじわと浸透していったことからできた流れなのではないかと考える。
 「攻め」といえば、昭和でいえば大阪暁会や福井渚会のイメージが強い。大阪暁会の山下義さん、平田裕一さん、福井の栗原績さんは 名人戦の挑戦者となっている。残念ながら昭和期においては、名人位奪取はならなかったが、平田さんは平成になって名人位についた。 マンガ「ちはやふる」の「攻めがるたの伝道師」である原田先生のモデルとなっている前田秀彦さんは、昭和の名人戦では東京白妙会の所属で あった。平成では府中白妙会所属で名人戦に挑戦したが、いずれも敗退している。クイーン戦においては、福井渚会の山崎みゆきさんが 昭和期から挑戦者になるもののクイーン位を獲得したのは平成である。
 一般会において、「攻めがるた」というイメージが膾炙したのは、昭和の終わりごろからの福井渚会の選手の活躍によるだろう。 選手権や選抜大会の優勝は昭和期からであるが、三大タイトルや名人戦予選での上位独占や、名人・クイーンへの挑戦者としての活躍の イメージは平成になってからという印象である。そして、平成となると前田さんの府中白妙会の「攻めがるた」の存在も大きくなる。
 そして、もうひとつ若手選手の供給源として大きいものに、学生のかるた会がある。ここで「攻め」への特化と重要性を体現していったのが 「東大かるた会」の活躍である。昭和の終盤に設立され、それまでの慶應・早稲田の牙城に肉薄し、瞬く間に大学かるた界の中で存在感を示すようになった。 存在感はあるものの、やはり注目を集めたのは職域学生大会での初優勝である。この初優勝は平成になってからだった。 指導の方法論として、時として極端に「自陣を省みずに敵陣を攻める」といった「攻め」の精神の強調は、多くの選手を育てた。 今では、大学かるた界では、このような「攻め」の指導が幅をきかせている。
 私が体験した昭和期の慶應かるた会の「攻めがるた」は、現在大学かるた界で行われている「攻め」の指導よりは穏やかなものだった。 「三字決まり以上の友札のわかれを攻める」「同音はじまりの二字決まりで敵陣を攻める」や「単独の二字決まりを敵陣で攻める」など はいわれたが、今初心者にいうような「自陣は暗記できなくても敵陣を暗記しろ」というようなことは言われなかった。
 「感じ」が遅いために決まり字が聞こえたときには、攻めができずに自陣の札を取るしかない経験をし、わかれ札を攻めないといけないと 注意を受けつつ、守って取ることにそれほど罪悪感を持つことはなかったように思う。(先輩に叱られるのは怖かったが、、、)
 この「攻め」の強調は、昭和よりも平成のほうが格段に強化された。私のかるたは、攻めが遅く決まり字が聞こえちゃったから自陣の札が 取れたというような感じであるし、相手の攻めの狙いをかわして自陣の札を取ることを考えたりもするので、現代の大学かるた界の「攻めがるた」 とは異質なものである。周囲からは「守りがるた」と言われてしまう。使っている文法は「攻めがるた」のもので「守りがるた」の文法は 使っていないのだが、自陣で取る札が多ければ、「守り」と言われるのもやむをえない。
 現在のかるた界の「攻めがるた」ができない私は、平成の「攻め」に乗り換えられなかった昭和の「攻めがるた」くずれということになる。 これが、私のかるたが「昭和のかるた」である理由の二つ目である。

 最後の三つ目は、私個人の話である。

 私自身、昭和の時間を過ごしたのは29年と2ヶ月、平成は今月で28年と6ヶ月ということになる。 まだ、昭和のほうが長い。かるたの対戦数も、昭和の間に2104試合、平成では1353試合(2016年5月27日現在)とまだまだ昭和の対戦数のほうが多い。 昭和にかるたと出会い、昭和にA級に昇級し、個人戦でA級で入賞したのも昭和である。もちろん、平成の現在も、自分の今持てる力を 競技において発揮しているが、私のかるたの基礎をつくり、一定レベルまで育んだのは昭和という時代であった。 ゆえに、三つ目の観点においても、私のかるたは「昭和のかるた」なのである。

 以上は、私のかるたが「昭和のかるた」であることを説明しているだけで、「昭和のかるた」を定義するものではない。 すばらしい「攻め」の「昭和のかるた」もあれば、技術・戦術の見事な「昭和のかるた」もある。結局は、選手個人の持つ個性ということに 落着く話なのである。とはいうものの、私の個性は、昭和という時代を背景に育まれ、磨かれていったものだということは確実に言える。 この昭和に形成されたかるたの形を、平成のかるたというヤスリをかけて、整えつつあるというのが現状であるということなのだ。

 「時代遅れ」と言うなかれ。
 「昭和」のかるたに誇りをもち、「昭和」という時代に生きていたことに胸を張ろう!


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