TOPIC "番外編"
昭和の思い出
〜昭和64年の一週間〜
Hitoshi Takano FEB/2019
平成31年となって1か月が経過した。平成最後の年ということで、4月30日までの4か月が平成31年である。
ふと、最後の年つながりで、昭和最後の年、昭和64年のことを思い出した。昭和64年は1月7日までの1週間であった。
1989年の競技かるたの対戦は33試合。練習日数は15日。あまり多くはない。このうち、5試合、2日が、昭和64年の記録となる。率にして、1割5分2厘と1割3分3厘。
365分の7である「1分9厘」と比較すれば、どちらも、7日間としてはよく練習したほうと言えるだろう。
1988年(昭和63年)の12月は3日間で8試合の練習である。仕事納めのあと、静岡県の高校に練習に参加させてもらった。
26日は沼津東高で2試合、27日は午前中に沼津東高で2試合、午後は長泉高で2試合、28日は長泉高で2試合であった。6勝2敗の結果だった。
11月の最後の練習が19日だったので、1か月以上練習の間隔があいていたので、新年に向けての調整であった。
年末に実家に帰り、明けて昭和64年。3が日は実家で過ごすが、4日に早稲田の大槻氏のお宅での練習会に参加させていただいた。2試合取って2勝の結果だった。
正月に個人宅にお邪魔してとらせていただくということは、学生時代から何回かさせていただいている。今、振り返ると貴重な経験であったと感じる。
そして、6日、年末には顔を出せなかった富士高の練習に参加。年末から年初にかけての静岡県の強豪校をめぐる強化練習の仕上げである。結果は、3試合取って2勝1敗だった。
年末からの静岡ツアーは、8勝3敗。いきのよい若手相手に割とよい戦績といえるだろう。よい練習となった。各高の先生にも大変お世話になった。
昭和64年の戦績は、2日間の練習で、5試合4勝1敗、勝率8割となった。もちろん、6日の練習が終了したとき、これが昭和最後の試合となるとは思ってもいなかった。
ちなみに、昭和最後の試合は、敗戦で終わっている。
富士高での練習のあと、私は静岡県の富士市から東海道新幹線で京都に向かう。
翌日の名人戦・クイーン戦を近江神宮で見るためだ。このときの名人戦は、種村名人対石沢挑戦者というカードだった。
どちらも、親しくさせてもらっていた選手であり、楽しみにしていたカードだった。前日に京都のホテルに泊まり、名人戦当日に近江神宮に行くことにしていた。
朝起きて、ホテルを出ると、半旗が掲げられていた。
「ひょっとして、、、」、私の胸をよぎったのは、「崩御」の二文字である。
「嗚呼、ついに、、、」
しかし、この時、昭和が終わったという感慨よりも、この日に予定されている名人戦は行われるのだろうかという懸念が勝っていた。
とりあえず、奈良在住の将来の家内と待ち合わせをしていたので、二人で名人戦の会場である近江神宮に向かう。
会場は、神社である。しかも、天智天皇を祀っている。おそらく延期となるであろうことは予想できた。
近江神宮に到着すると、延期となることが判明。選手のお二人に挨拶をして、平成2年に結婚することになる未来の家内とともに京都に戻ることとなった。
極めて可能性の低い名人戦延期の当日、その現場に居合わせたということは、競技かるたの選手としては、非常に希有な経験と言ってよいだろう。
この昭和64年の1週間は、ある意味公私ともに忘れられない内容の濃い1週間となったのである。
三が日明けの個人宅練習、そして年末から続いた静岡の強豪三高校めぐりの総仕上げ、名人戦の延期現場に将来の伴侶とともに居合わせたこと。
1週間に凝縮されているがゆえに、濃密な記憶として残っているような気がしてならない。
さて、この記事をアップしてから、平成は3か月続く。平成31年の思い出を振り返るのはいつのことになるだろうか。
いつになるにしても、新しい時代でも、競技かるたに取り組んでいきたいと願っている。
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