TOPIC   "番外編"

嫉妬

〜理性と情念の間で〜

Hitoshi Takano FEB/2020


 「嫉妬」という言葉には,「やきもち」の意味もあるが,ここで述べたいのはいわゆる「やきもち」ではない。 他者の才能など優れた点をうらやむ気持ちの意味での嫉妬である。
 漫画の神様と言われた有名漫画家が,漫画の王様と言われた自分よりも年下の有名漫画家に対して巷間でも話題にされるエピソードがあるが, この時の漫画の神様が抱いた感情も「嫉妬」であると言えるだろう。
 大阪冬の陣・夏の陣は,徳川の世を存続させるために豊臣家を滅ぼすための戦ではあるが,天下人であった徳川家康に決意させたのは,豊臣秀頼への嫉妬があるという説もあるようだ。 年老いた家康は,秀頼の若武者ぶりに嫉妬し,そして危機感をもったと言われる。天下を取った家康でさえ,老いには勝てない。 自分が死んだ後,若い秀頼が生きていれば,豊臣の盟主として徳川への対抗勢力になりうると感じたので,自身の生きているうちに滅ぼそうと考えたというわけだ。 戦国時代から織豊政権を経て,関ヶ原のあとに江戸幕府が成立した背景があり,当時の政治的事情はもちろんあるだろうが,単に老いた家康が秀頼の若さに嫉妬したというほうが話としては面白い。 そこに,極めて人の感情的な面を感じるからだ。

 才能や若さに嫉妬する構図は,勝負の世界などで出やすいだろうし,そうした世界のほうがわかりやすいだろうが,会社組織などの中でも地味に存在するのではないか。
 会社組織として本来育てなければならない若手を上司である年配者が,嫉妬によりいじめる・意地悪をするなどという行為が,現在ではハラスメントとして社会問題になっているのではないだろうか。
 会社組織であれば,上司は若手を育てるべきである。そうでなければ,今後の会社の発展には赤信号がともる。 それでも,自分の座を脅かす存在と感じたり,可能性を秘めた若さをもっているというそれだけの理由で嫉妬し,ハラスメント行為をする。 理不尽な感情であり,理不尽な行動である。
 理性が勝れば,こうした嫉妬を押さえることもできるだろう。しかし,時には自分が嫉妬しているという事実にさえ気づいていないことがある。 気づいていたとしても,理性より嫉妬という情念が勝ることもあるだろう。人の感情とは御しがたい不可解なものである。

 ここまでは,どちらかというとネガティブな面を強調するかのように書いてきたが,ポジティブな展開もある。
 嫉妬してしまった相手に負けないように,自分も努力し,勝負の世界であれば相手よりもよい結果を得るために鍛錬するということであれば,それはポジティブな行動といえるだろう。
 とは言いつつ,スポーツの世界でも,卑怯な手段で相手を引きずり落とすという事件も起きた。相手を襲わせたり,飲み物に細工をしたりという事件を覚えている方も多いのではないだろうか。
 嫉妬というと,やはり,ネガティブイメージ,ブラックイメージに引きずられてしまう。

 なぜ,今回,こんなテーマで書いているのかというと,自分自身の心の中にも,嫉妬という闇を垣間見るからである。
 幸い,自分自身で嫉妬という感情に気づいており,理性で情念を制御しようとしているので,今のところ問題はないと考えている。

 私の嫉妬は,主に若さへの嫉妬である。若さの持つ可能性への嫉妬である。昨年,還暦を迎え,「まだまだ,やれるじゃないか」とは思うものの,老いは確実に自分の中で進行している。
 冷静に考えれば,自分自身が若い時に経験した様々な不安定さは,その後の可能性への裏返しのものであったはずだ。とはいえ,当時,この不安定さに心地よさは感じていなかった。 現在の様々な意味の安定は,ある意味心地よさを伴っている。この安定感は,若さを失った代わりに手にいれたと言ってもよいのかもしれない。 しかし,安定感はその後の可能性に制約を与えているように感じる。時間の制約ということを考えても,平均寿命に対しての時間は,若い人のほうが長い。 結局は,人はないものねだりをするのだろう。
 若い時は,年を取った時の自分の感情など,考えも及ばなかった。自分の老いについて,想像力は働かなかった。 今は,自分がある程度の老いを感じる年齢になったからこそ,若さの持つ可能性や魅力を感じることができるのである。若い時分,老いへの嫉妬などはなかった。 しかしながら,老いを感じ始めたころから,若さへの嫉妬は芽生えて来ている。これは,競技かるたという勝敗が明確な世界の中で,若い選手と競技をすることにより, 普通に仕事をし,生活をする中で感じる以上に,はっきりと認識されるようになったに違いない。 仕事をする中では,組織の肩書などというものもあり,若い人との関係でも,そうした要因が作用してトータルバランスが取れる。 一方,競技の世界は,そこに勝ち負けしかない。勝ち負けのバランスしかない世界では,ストレートに「老い」と「若さ」の関係性を感じる。 「老い」によって身につけたものが,競技において武器になることはあるが,肉体的な面においては「若さ」こそが大きな武器であるだろう。 もちろん,競技経験から負けたとしても若手にアドバイスはできる。しかし,負けた時の相手の若手に対してのアドバイスは歯切れが悪い。 そこには,現在の勝ち負けの力関係が出てしまっているからである。謙虚に学ぼうとする若手は,こちらの話に耳を傾け,何かを学び取ろうとしてくれるが, こちらとしては「じゃぁ,勝ってその理論の正しさを示してよ」という一言で,すべてを否定されることが怖いのだ。
 コーチや指導に専念して,自分自身が競技をしないのであれば,この感覚は薄れるかもしれないが,自分自身が競技者として勝負の世界にいる以上,突きつけられる問題である。 競技を引退すれば,この若さへの嫉妬もやわらぐのかもしれない。

 とりとめもなく,書いてきてしまったが,自分の心の闇である「嫉妬」という情念を理性というオブラートで包むという観点でまとめたい。
 今の若手は,自分が還暦になって競技かるたをしているイメージなどは,おそらく持っていないだろう。 しかし,現実にその年齢の私が対戦相手としている。このことは,対戦相手に認識しておいてほしい。 そして,もし,その対戦相手が何十年後か,還暦の年齢を迎えて競技を続けていたら,昔の対戦相手であった私との対戦を思い出してほしい。 あの時の私と比較して,自分がどの程度,競技パフォーマンスを発揮しているかどうかを考え,もし,その域に達していないと,還暦の時の私に嫉妬してくれたとしたら, 私の今の「若さ」に対しての嫉妬は,心の闇という負の感情から脱却できるのではないかと思うのである。
 還暦を超えた私は,いずれは還暦を迎える相手の未来とも,現在の競技かるたの勝負においてしのぎを削っているのである。


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