TOPIC "番外編"
看板
〜背負っていますか?〜
Hitoshi Takano APR/2021
2020年度の振り返り
ここ数年の4月のTOPICは「個人データの楽しみ」として、データから前年度の振り返りをするのだが、ご承知のとおり、新型コロナウイルス感染症予防対策のため、
二度の緊急事態宣言とそれによる施設利用の制限により、練習もままならず書くべき百区切りデータなどがない。
(特筆するとすれば、E君との対戦が100を超えたことだろう。)
4月から8月、1月から3月は、競技かるたを取れていない。1年間のうち8か月は練習もできなかったのである。
練習できた月も、様々な制限により、練習日、練習回数も少なくなり、対戦相手も限られ、対戦数もまったく伸びなかった。
というわけで、今回は違うテーマといたしたい。
「看板」を背負う
4月と言えば、入学のシーズンである。
4月から大学に入学した学生は、本人が意識するしないに関わらず、世間からはその大学名の看板を背負うことになる。
特に体育会や文化部に入部すれば、活動、パフォーマンス、記録や勝敗などに大学の看板がついてまわる。
私自身、大学で競技かるたを始めて以来、競技の世界では、40年以上「慶應かるた会」の看板を背負っている。
学生の時は、競技を離れても「慶應義塾大学」の学生ということで、看板を背負っていた。塾講師等のアルバイトでもそうであったし、
夜間の職務質問にあったときも学生証を見た警察官に「慶應」の学生ということで認識された。
。
卒業後も「慶應義塾」に勤務したので、いまだに競技かるたの世界とは別に「慶應義塾」の看板を背負っているのである。
これだけ長いこと同じ看板を背負っていると、意識としては切っても切り離せない感覚になる。
そして看板を背負っている以上、その看板を汚してはいけないという意識も強くなる。
慶應義塾大学に入学し、慶應かるた会で活動を始める新入生は今年度も多数いることだろう。そして、みんな「慶應」の看板を背負うのである。
卒業すると塾員と呼ばれるが、卒業後も慶應義塾大学の卒業生としての看板を背負うことになる。就職先の会社の看板を背負う人も多くいるだろうが、
同時に出身校の看板も背負っているのである。
出身校と言えば、私も大学以外の出身校の看板も背負っている。それは都立西高という高校の看板である。
昭和の頃の話になるが、かるたの大会で都立西高の後輩たちがD級で出場していた。入賞者も出た大会であった。
その時に役員の方から、後輩たちの礼儀作法について、先輩から指導するように言われたことがある。
そのころは、高校の後輩たちも大会に出始めたころなので、高校の中に指導する先輩もいなかったため、慣れないこと、知らないことが多々あったのである。
私にこのことを伝えた役員の方は、私が西高の卒業生であることを知っていたのだ。
私の高校時代には「競技かるた」の同好会もなく、私は競技かるたを経験していないにも関わらず、大学に進学してのちに知らず知らずのうちに、
競技かるたの世界で「都立西高」の看板を背負っていたのである。
大学に進学し、大学のかるた会に所属する選手でも、高校時代に名を馳せた選手は、高校の看板を背負っている。
高校選手権団体戦の優勝回数の双璧をなす「静岡県立富士高校」や「暁星高校」の出身者は特にそうであろう。
もちろんそれ以外にも競技かるたのさかんな高校出身者も感じることだと思う。
また、いわゆる一般会で研鑽を積んできた選手は、その所属会の看板を背負っている。
大学に進学し、大学のかるた会に移籍する選手もいれば、所属会は変えないままの選手もいるが、大学選手権や学生選手権、職域学生大会などでは、大学の看板を背負うことになる。
とはいえ、通常の大会に個人で出場する際は、一般会に所属する選手はその会の看板を背負う。
背負う看板もいろいろあるのである。
慶應義塾大学の新入生へ
さて、慶應義塾大学の新入生で競技かるたをするみなさんは、出身高校の看板もしくは所属会の看板を今までは背負ってきたわけです。
そして、それに加えて、今度は「慶應」の看板も背負うことになるのです。
いつまでその看板を意識することになるかはわかりませんが、看板はついて回ります。
看板を背負って、ぜひ、その重みを感じてください。
重みに慣れれば、悪いものではないですよ。
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