TOPIC "番外編"
「負け」は恥ずかしいことではない
〜谷川浩司十七世名人の言葉〜
Hitoshi Takano Jul/2022
将棋界で、谷川浩司九段が2022年5月23日付で、現役のまま「十七世名人」を襲位した。
翌6月の9日には、日本将棋会館で襲位推戴状授与式と記者会見が行われた。
将棋や囲碁の棋士は、プロとして日々勝敗の世界に生きている。
我々、競技かるた界に身をおく人間としては、プロ・アマの違いがあっても、勝敗の世界に生きる棋士の言葉からは学ぶことが多い。
谷川十七世名人の推戴状授与式の記者会見の中でも、学ぶべき言葉があったので、この場を借りて紹介したい。
(インターネットのニュース記事より構成)
(1)棋士には「勝負師」「研究者」「芸術家」の三つの顔が必要だと主張してきた点について
AIが発達する中、AIによって将棋から芸術性が失われる危惧を感じているかと問われて、次のように答えている。
棋士には三つの顔が必要だと20年ほど前に話したが、その後、将棋も私も大きく変わっている。
研究にも「将棋の真理を追究する研究」と「次の対局で有利に進めるための研究」がある。
今後、芸術家の部分を目指すのは序盤などでは難しくなると思うが、特にトップ棋士の対局では、
形勢が苦しい側が中終盤で決め手を与えずに踏ん張り、難解な中終盤が延々と続くことが増え、
それによって名局が生まれることも増えるだろう。芸術家の部分は、中終盤でこれからの棋士に見せてもらえるのではないかと期待している。
(2)対局中の姿勢や所作の美しさにも定評があるとの評価について
将棋は勝負の世界でもあるし、伝統文化の世界でもある。
将棋ファンに長く将棋を見ていただく中で、特に子どもたちには、対局が始まるときの作法や、
対局が終わったときの「負けました」「ありがとうございました」と告げる所作から学んでほしい、成長してほしい気持ちがある。
羽生善治九段をはじめ、強い棋士ほど「負けました」という言葉をはっきりと発する印象がある。
「負けるというのは悔しいことであっても恥ずかしいことではない」
と考えているので、私自身も「負けました」という言葉が言えなくなったり、負けたときに悔しい気持ちが失われたりしたら、
そろそろ考えなければいけない。
(3)推戴状を受け取った率直な心境について
私自身、今後もできる限りのことをするしかないと思っている。
400年以上続く将棋の歴史の中で、令和になってからは将棋が変革し、面白い時代になってきている。
現役棋士として若手棋士と勝負をしながら、盤上での対話を少しでも楽しめるように精進したい。
(4)プロ入りから46年、間断なく将棋を続けられた原動力について
将棋の奧の深さ、懐の深さではないか。弱いころのほうが将棋を分かったつもりになっていたが、強くなればなるほど奧の深さがぼんやりと感じられるようになってきた。
そこへきて、この5年間で過去の常識がまったく通用しなくなったので、私たちベテランの棋士は一からやり直さなければいけない状況。
このような変革の時代に現役でいられることを幸せだと思って取り組んでいきたい。
十七世名人襲位については、今年の4月に還暦を機にということのようだが、私も2年半前に還暦を迎えた。
勝ち負けが出る世界において、還暦をこえて若手と伍している身として、学ぶことが多いということを率直に感じた。
(1)についていえば、競技かるたで勝敗を争う以上、「勝負師」であることは確かだ。「研究」という点では、この稿もそうだが、
私のWEBSITEで様々な視点から競技についての考えを発信している。そして、試合の中では、一試合に一回でもいいから、
自分で今の取りは「アーティスティックな取り」だったと思えるような取りができるように努力をしている。
「研究者」の側面は、「勝負師」としての側面や「芸術家」としての側面に反映されることが多く、
試合中の顔ではなく試合に向けての練習時に発揮されることが多い部分だろう。実戦は、研究の課題を与えてくれる場かもしれないが、むしろ、研究を検証する場である。
勝負師としての勝負勘が、研究の結果とは違う選択をさせることもあるし、芸術家としての側面が研究の実践を美しくないと思いとどまらせることもある。
葛藤が生じるこういう場面があることが競技の魅力でもある。
将棋は情報が完全に公開されているゲームだが、競技かるたの場合、読まれた札の情報は試合経過の中で明らかになるものの、これから読まれる札の順番の情報は非公開情報である。
この点が、将棋における「研究」と競技かるたにおける「研究」の相違点でもある。
「芸術家」としての側面は、配置初形や序盤から中盤にかけての配置、取りの技術などにおいて発揮される部分が大きいと思う。
そして、「勝負師」としての側面は、中・終盤の札の送りや、札の狙いなどで発揮される部分が大きいと感じる。
AIの影響は、将棋界のほうが競技かるた界よりも大きいだろうが、競技かるたにおいても、いずれはAIがベストの送りやベストの狙いを指示する時代がくるだろう。
(2)については、本稿のタイトルとした。大事な言葉だと思う。1対1で勝敗を競う競技においては、勝つ人がいれば、必ず負ける人がいる。
(競技かるたにおいては引き分けはない。)私自身、普及に携わってきたが、特に勝ちたいという感情が出がちな低年齢層において、負けること、負けたことについて、
適切に指導するのは大変難しい。自分が望んでいた勝ちを得たということの反対側には必ず負けた相手がいる。その立場がいつ逆になるかもしれない。
その当たり前を、しっかりわかってもらうということは、大事な指導なのである。負けた時の悔しさがなければ成長にはつながらない。
負けた時の感情は「悔しさ」であることが大事だ。負けが「恥ずかしさ」であってはならない。
特に精一杯努力した結果の負けであれば、胸をはって受け入れ、受け入れたことで悔しさをかみしめ、次につなげればいい。
もし、恥じるとすれば、自身の負けに対してではなく、自分が努力をしなかったことに対してであろう。
しかし、低年齢層の子供に努力をしなかったことを恥じなさいというのは難しい。
寄り添って、噛み砕いて話さないと、負けたという大きな事実を受け入れなければならない感情の渦の中で整理しきれないだろう。
所作や作法、礼儀というものは、こうした感情をコントロールするための重要な要素に違いない。
幸いなことに、私はまだ、負ければ悔しい。この思いがあれば、まだまだ、競技を続けていけるだろう。
(3)については、私自身に励みになる言葉である。昭和のかるた取りである私が、令和のかるた取りである若手との勝負の中で、札をとおして対話をする。
この対話が楽しめるように私も精進を続けたい。
(4)については、本当に奥が深い言葉だと思う。競技を続ければ続けるほど、ますます感じるのだ。
谷川十七世名人が、名人のタイトルを初めて取ったのは、1983年である。私にとっては競技歴丸四年(五年目)、就職の年だった。
史上最年少名人のニュースは、当時の私に強い印象を与えた。
それから約四十年が経過し、谷川名人が永世名人として十七世を襲位した。それは、私にとっても嬉しいことなのである。
競技やレベルは違えども、同じ時間を勝敗の中に身をおいていたというその一点が、強い共感を与えてくれているからだろう。
谷川十七世名人の今後の活躍を祈念するとともに、私も頑張らねばと強く思うのである。
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