TOPIC   "番外編"

「できません!」

〜認める勇気〜

Hitoshi Takano Aug/2022

 競技生活も44年目ともなると、競技かるたを指導する場面に接することには、ある意味長年携わってきたと言ってよいだろう。
 大学かるた界の出身者であるので、大学からかるたを始めた初心者・初級者に対してが多かったが、職場の関係で、高校生や中学生への指導もそれなりに経験することになった。 そして、「ちはやふる」ブーム以降は、「ちはやふる」に憧れて競技を始めた小学生への指導をする機会もでてきた。
 さらには、その小学生の子供を練習に連れてきている母親にも指導する機会が生じた。
 そういうわけで、結構な年齢層を対象とした指導というものを経験してきた。

 指導の時に気をつかうのは、その対象となる選手が、どこの所属でかるたをやっているかということである。
 一般のかるた会なのか、学校の部活なのか、学校の部活だったら、小学校なのか、中学校なのか、高校なのか、大学のサークル活動なのかということである。
 対象となる会について、ある程度知っていれば気を遣うポイントも少しは見えてくるが、知らないところではその会や部活の指導方針がわからない。 いわゆる一般論としての考え方で、説明、解説、指導をすることになる。
大学のサークルであっても、現役学生の新人指導のあり方が、私が学生だった時とは異なる部分があるので、その年度・年度の方針をある程度理解していないとやりづらい。
 中学・高校などで、顧問の教諭を知っていれば、意識合わせを事前にすることもできる。 それも、その教諭が競技かるた経験者か未経験者かでも、確認内容がかわってくる。
 そして、小学生、中学生は、成長期であり、身長や体重もかわり、フォームもその身体の成長に応じて変えなければならない。 個人差もあるが、高校生でも同様のことがおこる。身体の成長という面は、大学生や年配の方においてはあまりないが、身体の変化は充分に起こりうる。 特に多いのは体重の変化である。
 身体の成長が予測される世代の選手には、今後の変化を予測した上で、いずれはファームを変えなければならないことを説明し、それを前提にした指導が必要である。
 さらに、指導者の言うことをそういうものだと受け入れて素直に実践する年代と、指導者の言うことに対しても、本当にそうか自分で検証しつつ取り組む年代の差というものもある。 個人差もあるが、小・中学生は割と受け入れてくれるが、高校生くらいだと半々くらいだろうか。大学生や年配の方だと、指導者の話は、ひとつの意見程度にとらえる割合がふえるだろう。
 かくも、指導には悩みがつきまとう。
 結局は、指導を受ける側の一人ひとりの個性や状況を見極めて、指導を行わなければならないということである。
 あたりまえの話といえば、あたりまえの話なのである。

 さて、こうした個々への指導において、最近思う点は、「できない」ということをどう認識してもらうかということである。
 指導して本人が練習し、「できない」ことが「できる」ようになるということは、指導する者にとっても当人にとっても一つの成功体験であり、嬉しいものである。
 しかし、指導者があの手・この手で工夫した指導をし、本人が練習し、努力し、がんばったとしても、「できない」ことがある。 全くできないことから、ある程度まではできるが、それ以上ができないことまで、できないことにもグラデーションがあり、多種多様である。
 野球のピッチングに例えれば、120kmのスピードの直球しか投げれなかった選手が、コーチと二人三脚で努力し、140km台のスピードの直球を投げられるようになった。 しかし、150km以上のスピードは出せない。これは、ある程度は「できる」ようになっても、ある程度以上は「できない」ということである。 ここで、選択を迫られる。 なんとかして150kmのスピードにチャレンジするか、これ以上のスピードは求めずに変化球のマスターやコントロールの向上に努力と練習をむけるかというような選択である。
 大事なのはスピードボールを投げられるようになることではなく、打者をおさえるピッチングができるようになることである。
 手のサイズや指の長さといった身体的事情で、フォークボールを投げられない場合、フォークボールのマスターは「できない」という判断はしなければならない。 しかし、フォークボールが落ちる球であるということを考えれば、他の変化球の球種で落ちる球をマスターすれば、フォークはだめでも落ちる球を投げるということはできる。 どこで見極めて方針転換をするかである。
 さらに言えば、落ちるボールを投げられなくても、打者をおさえるピッチングの技術を身につければ、投手としての本質的な役割ははたせるのである。
 競技かるたでも、感じのはやさや払いのはやさといったことから、突き手、囲い手などといったテクニックも含めて、様々な「できる」「できない」の要素がたくさんある。
 「できる」・「できない」にもグラデーションがあり、そのグラデーションの中で「できる」と「できない」のラインをどこかで判断し、 他の方策の習得に変更していかないと、非効率的に時間を使うことになりかねない。
 かるたは、相手よりも相対的に札をはやく取ればよく、相手よりも先に自陣の札をなくせばよいという競技である。 絶対的はやさがあるに越したことはないと思うが、そのはやさを出すことができないのならば、勝負の本質に基づいて、方向転換をし、他の要素を磨けばよいのである。 先月の例でいえば、絶対的はやさに芸術性を求めるか、そこは捨てても勝負師としての勝敗へのアプローチを重視するかということであり、 その点を見極め、技術を磨くための研究をするという三要素(勝負師であり研究者であり芸術家である)の話でもある。

 指導する側から見ていて、これ以上は「できない」だろうなと思う場面は多々ある。しかし、本人はできるようになりたいと努力を続けている。 ここで指導者が「これ以上はできないから、方向転換しよう」と言ってしまっていいのだろうか。 指導者の見る目が間違っていて、あと少しで「できる」ようになる芽をつぶしてしまうのではないか。 この判断には常に悩むところである。
 一番いいのは、本人が「できません」と言ってくれることである。 そうであれば、できそうであれば「もう少しがんばってみよう。」と言えるし、「こういう工夫をしてみてはどうか。」とアドバイスもしやすい。 指導する側も限界と考えていれば、「ここまでよく頑張った。この経験を活かして、今度はこの技術にチャレンジしよう。」と方向転換を促すことができる。
 しかし、なかなか本人は「できません」が言えないものである。 今までの努力に対しての思い入れであったり、プライドであったり、ライバルができているのに何故自分はできないのかという勝気な思いであったり、様々な感情のゆえであろう。

 「できません。」

 これを口に出して言うこと、これを自分で認めることは勇気のいることである。

 勇気を出して、「できません。」を言えれば、そこから新しい自分をスタートさせることができる。 指導する立場の人は、その勇気を認め、寄りそって、一緒に次のステップに歩を進めよう。

 「できません。」の一言は、"Breakthrough"を生む一言である。
 先月は「負けは恥ずかしいことではない」というタイトルだったが、今月は「できないことは恥ずかしいことではない」というタイトルでもよかったかもしれない。
 できないことを認めることは、自分を知る一歩でもある。できないことをネガティブに捉えず、ポジティブに感じてほしい。 本稿が、その役にたつのであれば、たいへん嬉しく思う。


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