読み切り小説

「 は か い 」

Hitoshi Takano FEB/2007

=競技かるた=


 皆さんは、「競技かるた」をご存知だろうか?

 お正月になるとNHKの衛星放送などで名人戦とかクイーン戦というタイトル戦のTV中継をやっている競技であるが、これをご覧になった方なら、イメージがすぐ湧くことだろう。
 そんなTV番組見たことないという方のために、少し解説をしよう。

 「競技かるた」は、小倉百人一首を使用して行う「かるた」を競技化したものだ。一対一で選手が相対して、試合をする。
 小倉百人一首は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活躍した藤原定家という歌人が、古今の名歌から一歌人一首で百首を選んだものである。ここでいう名歌は、和歌のうちでも短歌といわれるもので、五・七・五・七・七の定型詩である。最初の五・七・五の部分を上の句と言い、あとの七・七の部分を下の句という。
 小倉百人一首の札は、十二月になると書店に並べられ、一月末くらいまでは売られているという季節もの商品である。任天堂、大石天狗堂、田村将軍堂そして翁かるた本舗といった花札などを製作・販売している会社の製品が多く取り扱われている。いまでは、任天堂はファミコンの会社といったほうがとおりがよいだろうし、翁かるた本舗はエンゼルトランプといったほうがイメージしやすいかもしれない。
 こうした会社の小倉百人一首のセットを購入すると大抵は、下の句の文字だけ書かれた「取札」が百枚、歌の作者と作者の絵と上の句と下の句が書かれた「読札」が百枚、合計二百枚の札が入っている。

 一対一の試合をどのようにするかを説明しよう。

 競技者は対面して着座する。それぞれの競技者は、取札百枚の中から、アトランダムに二十五枚を選び、残った五十枚を片づける。競技者は、横八十七センチ、縦三段の競技線内にこの二十五枚を並べる。競技線といっても畳の上にそんな線が書かれているわけではなく、競技上の概念である。自分の競技線の中を自陣と言い、相手の競技線の中を敵陣と言う。各段の間は一センチ、対技者の札との間は三センチあける。こうして整然と並べられ、十五分間の暗記時間ののちに、読手が読札百枚をよくシャッフルして一枚ずつ順に読んでいき、競技者は読まれた札を取る。
 百枚読むが場にない札が五十枚ある。これを空札(からふだ)という。読手は、歌の上の句を読む。競技者は、その上の句に対応する下の句が書かれた取札を取る。そして、読手はその歌の下の句から読み始めて、次の歌の上の句を読む。競技者にとってみれば、前の歌の下の句の読みが、「いちについて、ヨーイ。」で上の句の読みが「ドン」に該当するようなものだ。
 空札の時に間違って、場の札に触れてしまうとお手つきとなる。お手つきをしてしまうと相手から取札が一枚送られてくる。また、敵陣の札をとれば、相手に札を一枚送ることができる。こうして、先に自分の陣の札をゼロにしたほうが勝ちである。
 TVなどで競技かるたを見ていると、一回の読みで、札が何枚も跳んでいくのを見ることもあるだろう。よく「あんなに札を跳ばしてお手つきにならないのですか」との質問を受けることがある。実は、これは、札押しというルールが認められていることによる。
 通常、読まれた札(これを「出札」という)の取りは、直接、出札に利き手の手首より先で触れることによる。手のひらで札を押さえて取る「押さえ手」や指先で札を突いて取る「突き手」と言われる取りがこれである。また、札を払い跳ばす「払い手」という取りがあるが、これも出札から直接払えば(札直(ふだちょく)という)、この取りの概念にあてはまる。
 この払い手という取り方は、非常にスピードが乗って、競技かるたを取る者、見る者に魅力を感じさせるものであるが、「札押し」による取りというものが認められていることにより、さらに有効な取り方となる。「札押し」とは、直接出札には触れてはいないが、手前の他の札から札を払って、競技線の外に札を完全に押し出すことによって、押し出した主体である競技者の取りと認められる取り方である。
 この「札押し」という取りが認められているため、何枚も札に触れてもお手つきにならないのである。厳密には、出札のある陣の札にならば何枚触っても手つきにはならないということである。したがって、出札が自陣にあるにもかかわらず、敵陣に札に触れるとお手つきになってしまう。空札の時に、自陣と敵陣の両方の札に触れてしまうと「カラダブ」といって、二枚分を相手から受け取らなければならない。
 TV番組で見ると、札が左右に数枚ずつ何段かに分かれて置かれており、札が読まれると、その段ごと札が数枚撥ね跳ばされていくのを目にするが、それは、この「札押し」のルールと「払い手」という取りを最大限活かすための工夫なのである。

 さらに、TV番組で見るときにもう一つ覚えておくとよいことを解説しておこう。

 それは「決まり字」という概念である。「むすめふさほせ」という言葉を聞いたことがあるだろうか。
 これは、百人一首の百首の中にこの音で始まる歌は一首しかないというものを並べたものである。別の言い方をすれば、百枚の札の中でこれらの音で始まる札は一枚しかないということである。したがって、「む」と聞いただけで、出札を取ることができるのである。「むすめふさほせ」は「一字決まり」の札である。
 これに対して「あ」で始まる札は十六枚ある。「あしびきの」という札は、二音めを聞けば、出札が特定できるので「二字決まり」の札といわれる。一番決まりが長いのが六字決まりで、「あ」札の中では「あさぼらけあ」「あさぼらけう」という音で始まるので、六文字めまで待って判断しなければならない。こうした決まり字の長い札には、「囲い手」という手段を使うことが多い。札に触らないように、また、相手から取られないように、手で札を囲ってブロックするようにして、音を聞き分けて取る方法である。
 そして決まり字は試合中に変化する。どちらかの「あさぼらけ」が出たら、もう片方は、次は六字めまで待つ必要はない、「あさ」で始まる札は、もう一首「あさじふの」であるから、この「あさじ」の札がすでに読まれていれば、「あさ」という二字決まりで取ればよいし、「あさじ」が読まれてなければ「あさぼ」の三字決まりで取ればよいのだ。そして、他の「あ」で始まる札十五枚が全部読まれたあとならば「あ」の一字決まりで札をとることができる。

 こうしたことを知って、正月の競技かるたのTV番組をみるとさらに面白く番組を楽しめることであろう。

 さて、競技かるたのルールをざっと理解していただいたところで物語を始めよう。

=年末に届いた年賀状=


 大学入試センター試験を一週間後に控えた競技かるたの試合会場にショウタはいた。
 ショウタは、大学受験浪人である。週末には、大学入試センター試験を受けなければならない。今年の受験で失敗すれば、二浪が待っている。「一浪、ひとなみ」と言う言葉で昨年は励まされたが、ある意味では、二浪するなというプレッシャーでもある。
 世間一般で考えれば、後がない受験生がそんな時期に競技かるたとはいえ正月の遊びと思われている試合会場にいることは珍しい部類に入るのだろう。
 しかし、この試合出場はショウタ自身の選択であった。

 きっかけは、十二月二十五日に届いた年賀状だった。私製はがきの年賀状なので表面には「年賀」と記載しなければ、通常郵便として配達されてしまう。
「あけましておめでとうございます」で始まる文面は、ショウタが所属する東京山風会というかるた会の事務局からのものだった。そこには、一月の大会日程や予備登録の締め切り日、一月の練習日程や練習場所の連絡が記載されていた。最後に、手書きで「受験勉強で大変でしょうが、息抜きに久しぶりにどうですか?」と添えられていた。
 ショウタは、このはがきを見て笑った。差出人のミスもおかしかったのだが、自分の置かれた状況をちゃんと覚えていてくれる人がいることが嬉しかった。毎月、練習の案内のはがきをもらうが、返事など書いたことはないし、八月を最後に練習にも行ってない。今までの案内のはがきにも一筆が手書きで添えられていたことはなかった。事務局などと大げさな言い方をしているが、鈴木さんというお年寄りが、山風会が、道場を失ってから、ずっとボランティアでやってくれている事務連絡なのである。
「鈴木さんが、ぼくのことを覚えていてくれた。気にかけていてくれているんだ。」
 ショウタは、嬉しさとともに驚きも感じていた。
 ショウタは、あとさき考えず、鈴木老人に返事の年賀状を書いた。この返信は、年賀状として元旦に届くことだろう。試合の予備登録のお願いも書いていた。
 このはがきが来るまで、かるたを取ろうなどと全く考えていなかった。しかし、このはがきを見て思った。受験勉強の中で、最近感じている閉塞感をうち破るためにはこれが一番だと感じたのだ。ショウタにとっては、小学校からずっと続けているものといったら、競技かるたしかなかったし、まがりなりにも三段の免許状をもらってもいた。鈴木老人の一筆を見た瞬間に、眠っていた競技の感触が目を覚ました感じだったのだ。
 問題は、親だった。父親はともかく母親の絶対反対は目に見えていたからだ。もちろん、親に嘘をついて、図書館に勉強に行くとかいって出場することも可能だった。でも、「嘘」は試合の妨げになる。後ろめたさは、試合の時は負の力に働く。そして、入賞して賞状や賞品をもらって帰ってきたら、まず、ばれる。ばれないためには早く負ければいいが、勝利を得にいくのであって、負けるためにいくのではない。勝利を得にいくのでなければ対戦相手に失礼だ。
 ショウタは正攻法でいった。母親は案の定反対したが、父親は止めなかった。
「この時期に一日かるたの試合に行ったくらいで受験に失敗するようなら、それはショウタの実力不足だ。結果に対しては自分で責任を持て。言い訳をしなければそれでいい。」
 この一言で決まった。
 試合出場を決めたら、不思議と受験勉強に身が入った。試合の日の一日という時間を作るためにショウタは工夫もした。予備校の自習室や図書館に行くのをやめ、自宅で勉強するようにした。移動の時間を節約するためである。外で勉強したほうが、気分転換になってよいし、生活環境と学習環境というけじめもついてよいのだが、そこは、自身の中でけじめをつけた。できれば、試合に行く前に練習もしておきたかったが、それは親の手前できなかった。ぶっつけ本番でもよいと思った。昨年は受験で、夏までしか練習しなかったし、今年は、山風会の二代目の会長が亡くなって、三代目に引き継ぐなど会のほうもいろいろあり、ほとんど練習していなかった。いまさらである。過去の蓄積で勝負するしかないと腹を決めていた。
 ショウタは、B級にエントリーしていた。二段と三段の選手からなる級である。約五十名の選手がトーナメントで優勝を争う。六回戦を勝ち抜かなければ優勝には届かない。ショウタは、幸運にも一回戦不戦勝を引いていた。 不戦勝を引いた場合は、控え室で休憩していてもよいのだが、ショウタは、会場に身を置いて、他のB級選手の一回戦を見ていた。試合会場に身を置くことで読手の読みを聞き、タイミングをシミュレーションすることで、練習不足を補いたかったからだ。
 そんな中、ショウタの目は一人の選手に釘付けになっていた。

=デストロイヤー=


 アユミは、絶好調だった。高校一年で競技かるた部に入部し、夏の学生選手権でD級優勝、先週の大会でC級優勝、今日のB級一回戦も、負ける気がしなかった。自分の払いのスピードに対戦相手がついてくることができないことは、最初の数枚でわかった。
 アユミの持ち味は、払いのスピードとパワー溢れる取りである。出札から直接払うことなど眼中にない。とにかく札があるとわかれば、そのあたりの段の札をすべて払い飛ばすのだ。二段払いになること多いし、三段根こそぎ払い跳ばすこともある。左右を間違えて、両方を立て続けに払うこともある。しかし、スピード命である。なにしろ札を撥ね跳ばす爽快感がたまらないのだ。先生や先輩たちは、出札から払うようにしなさいとか、せめて段を正確に払いなさいというが、そんなことをしていたら遅くなってしまうような気がするのだ。それに、そういう出札から直接取りに来る先輩たちは自分に勝てないではないか。先輩が出札から取りに来る前に段ごと跳ばしてしまえば、先輩は取れないのだ。スピードこそ、勢いのある払いこそすべてだ。出札から取ろうすると躊躇したような感じになってしまって、自分の良さを発揮できないのだ。
 アユミにつけられたあだ名は、デストロイヤーだった。プロレスラーみたいで嫌だったが、先輩たちに負けなくなると「デストロイヤー」結構「破壊者」結構という気持ちになってきた。
 特に上段の中央に札を辛気くさく一枚ずつ離して並べて、突きで取りに来る先輩や、自分への対策で中段や下段の札を一枚ずつ離して並べて札から取ると言う先輩に対して、圧倒的なスピードで数枚先からでもまとめて撥ね跳ばす時は、気持ちが良い。先輩は大量に跳ばされた札を、また、辛気くさく丁寧に一枚ずつ離して並べていく。面倒でないのだろうか。
 試合で、美しいフォームで出札からきれいに払う人とあたったこともある。そんな人がきれいに整頓した札をスピードとパワーにまかせて、思い切り大量に払うことに快感を覚えた。そこには破壊があり、相手がまたきれいに並べ直すという再生があった。そして、再生された札をまた破壊する。この繰り返しの中にアユミは競技かるたの楽しさを感じていた。
 この日も、アユミは絶好調だった。
 アユミの破壊行為は繰り返され、彼女の中で快感が増幅され、ますます、速く、ますますパワフルな取りになっていった。
 アユミは、向かうところ敵なく、四連勝で準決勝に進出した。

=破戒=


 ショウタが、一回戦の時見ていた選手は、払いは粗いがスピードは速かった。あのスピードであの粗い払いで取られるのは、ショウタとしては生理的に耐えられないと感じた。ショウタが、目指したかるたは、きれいな払い、きれいな取りだったからだ。
 しかし、二回戦から出場したショウタは、自分の目指すかるたは取れずに苦しんでいた。受験勉強の影響なのだろうか、札の暗記に関しての集中力は冴えていることが実感できた。だが、練習をしていないツケは、払いに出てきていた。暗記がしっかり入っており集中度も高いので、音に感じて手は出札の直上に行くのだが、札に触れていない状況が生じた。いわゆる空振りで、急遽押さえにいくか、手首の返しで逆に払いなおすなどのフォローをいれるしかなかった。無理に札に触れに行こうとすると出札からいけずにズレた払いになった。このような払いは、ショウタの目指すきれいな払いとは異なるのだ。ただ、ショウタの音に対する反応の速さ−これを「ひびき」という−は、対戦相手に微妙な影響を与えていた。二回戦では、どうやら相手の「ひびき」の間に入り、相手の「ひびき」を消したようだった。相手の反応は鈍り、手がでない状態に陥ったようだった。三回戦は、ショウタの「ひびき」の速さが、相手の過敏反応を誘ったようで、空札の時にショウタが札に反応して手を出すと、相手がつられてお手つきを連発してくれたのだ。
 続く四回戦は、相手が勝手に崩れてくれた感じだった。三回続けて取って集中力が切れてきていたのだろう。音に対する反応とはまったく関係ないところでお手つきをし、反応も明らかに鈍っていた。それに引き換えショウタの集中力は益々冴えてきたようだ。札の暗記は良く入り、相手陣に送った札が良く出た。相手は、もとあったこちらの陣を払い、二枚送られるというダブルのお手つきも重ねてくれた。ショウタは、自分の払いには不満ではあったが、勝機は明らかにショウタに与していた。
 こうして、ショウタは、準決勝に進出した。

 ショウタの準決勝の相手は、ショウタが一回戦で払いは粗いがスピードが速いと目をとめた選手であった。対戦カードには「早瀬あゆみ」という名前と十八枚、二十枚、十二枚、十五枚の勝利の記録が書かれていた。

 準決勝が始まった。アユミのかるたは変わらない。粗かろうがなんだろうが、スピードとパワーで押してくる。ショウタも「ひびき」の速さで、アユミの払いのスピードに対抗するが、払いの手が浮いてしまい、その間に出札の手前から根こそぎ札を持っていかれてしまう。きれいに取ることを旨とするショウタの感性には、耐えられない払いだった。十枚が読まれ、出札が五枚。ショウタは、まだ一枚も取れていなかった。
 最初から自分が一枚も取れないで、相手に連続で取られ続けていると、一枚も取れずに負けるのではないかという不安にさいなまれるものだ。実際そんなことはないのだが、一枚取るまでは不安なのだ。だからといって、あせって無理に取りに行くとお手つきをして墓穴を掘ることになる。不安は悪循環を生み、お手つきをしないまでも、躊躇して手が出なくなったり、取りがぎこちなくなったりもする。しかし、不思議なもので、一枚を取ると安堵感を感じ、普段の取りに戻る。この普段の取りまでの時間が長いと、大きなビハインドを背負う原因になるのだ。
 ショウタも生理的に合わない相手の払いと、自分が一枚も取っていないという事実で、不安を背負っていた。しかし、ショウタにはツキが味方していた。十一枚目の読札は、ショウタの陣の右下段であった。ひびきの早さも手の早さもショウタが勝ったが、惜しむらくは手が浮いてしまった。そこにアユミの手がぶつかってきた。アユミの手にぶつかったショウタの手は、アユミの手に押されるように右中段と右下段の二段の札をまとめて撥ね跳ばしていた。
ショウタの取りだった。
 この一枚で、ショウタの取りが変わった。今までは、出札の上に浮いてしまってからの取りか、出札からズレた取りになっていた。ズレた場合は、押さえ直したり、二度めの払いをかけるかだったのだが、この一枚を期に、ショウタはズレたところからの撥ね跳ばしのタイミングに合ってしまったのだ。
 手が浮くと相手に根こそぎ持っていかれる。ショウタは、無理にでも浮かない取りをしようとするとショウタ自身が生理的にあわないという取りになってしまったのだ。
 自分の目指すかるたに殉じるか、それともどんな形であっても勝利をもぎとりにいくか、ショウタの中では、二つの思いが葛藤していた。しかし、ショウタは決断した。相手の雑な払いを見ているとむかつくのだ。きれいな払いで勝って自分の考えの正しさを立証するのが本意だが、今日の自分ではそれは無理だ。その時、ショウタは、むかつく相手に負けたくないという単純な感情に支配された。
 ショウタは、札押しで、出札の周辺からの払いをよしとした。雑だろうが粗かろうが、札を撥ね跳ばした。数枚このような払いを続けると、競技かるたを覚えたての幼い日のことを思い出した。小学校のかるたクラスで、練習を始めた頃は、このように札を何枚も払い飛ばすことが楽しくてしかたなかったのだ。その面白さを身体が思い出したのだった。きれいな払い、きれいな取りは、長じるに及んで、周囲の指導者から、きれいな取りをすると褒められることで、目指すようになったスタイルだったのだ。そして、その練習の積み重ねが自分自身の型になっていったのだった。
 ショウタは、自分の型を離れ、幼少時の覚えたたてのころの楽しさを再び感じ始めていた。札を撥ね跳ばす楽しさは繰り返すことで増幅する。ショウタの「ひびき」の速さが、相手より勝っていたこともあり、徐々に差を詰めていった。
 アユミは、このショウタの取りの変貌に驚いたのだろう。ショウタよりもスピードとパワーを出さなければ、「ひびき」負けすると感じた。その結果はお手つきだった。
 ショウタは、接戦のうちにも逆転した。
 しかし、思いもかけない事態が生じた。自陣の札が減ると、自陣の各段には、一枚とか二枚ということになる。そうすると自陣に関しては、ショウタの払いが、再び浮き始めた。
 自陣は相手に取られる。しかし、敵陣はショウタが取る。こんな調子で、相手八枚の時に、ショウタは自陣を一枚とした。
 ここからが、大変だった。相手は、八枚を自陣の右中段と下段に四枚ずつ並べ、固めて専守防衛に入った。
 ショウタは、攻めた。
 しかし、相手の札を抜くことができない。
 まとめて撥ね跳ばそうとすると相手の手にブロックされる。
 外側の出札のみを狙いに行くと手が浮いてしまう。
 ついに、一枚対一枚の運命戦になった。敵陣は、「はるす」が「は」の一字決まり。自陣は、「ちぎりき」で「ちぎ」の二字決まり。二枚対八枚から敵陣を取った時に自陣にあった二枚の札だった。その時は「はるの」が出ていなかったので、三字決まりの「はるす」を送り、自陣に決まり字の短い二字決まりを残したのだった。 自分が選択して残した札である。ショウタは、自陣が出ると信じるしかなかった。 前の歌の下の句が読まれる。次の間のあとの上の句の読みを待つ。
「……ち」
 本来、ここでショウタは、相手の手の侵攻を防ぐべくその進入経路上に手を置き、自陣の札をブロックしていなければならなかった。しかし、何をぼけていたのか、ショウタは一音で動かず、あわてて二字のタイミングで、札を取りにいってしまった。この時、本人の意識では払うつもりで取りに行ったのだ。そこで、本日の手が浮くという欠点が出た。取りに行ったつもりで、手が札にさわれない。その隙に相手の手が勢いよく飛んできた。二字ぴったしのタイミングで、相手はショウタの陣の「ちぎりき」を撥ね跳ばしていた。
「やぶるかみよもきかずたつたがわ…」
 ショウタには二音めの「は」が聞こえていなかったが、読まれたのは「ちは」だった。
 ショウタは、自分のこの日の欠点に救われ、相手のお手つきで勝利を得た。薄氷の勝利だった。

 しかし、この準決勝でショウタは、きれいな払い、きれいな取りという自分自身に課した戒めを破っていた。すなわち、ショウタは、自分の型を自ら崩してしまっていたのだ。

 決勝戦は惨めだった。ショウタのかるたは、ばらばらだった。きれいでもなく、速くもなく、お手つきはしないものの札に対しての「ひびき」が失せていた。集中力に欠け、散漫といった表現が適当だろう。ショウタは、十五枚差で敗れた。

 帰路につくショウタは考えていた。

「準決勝での感情に任せた選択は果たして正しかったのだろうか?」と。
「自分が今まで目指してきた型を守るべきではなかったか?」と。

 ただし、勝負に仮定はない。厳然たる結果があるだけだ。戒めを守っていたとしても、準決勝で勝つという保証はない。準決勝を勝たなければ、決勝で惨めさを感じる前に、もっとひどい惨めさを感じていたかもしれないのだ。

 受験で練習もしていなかった中、準優勝という結果は、ひとつの結果である。週末に控えるセンター入試でも結果が出せればよいとショウタは考えていた。

……… 完 ………


(C)2007.2 Hitoshi Takano

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