短編かるた小説(後編)
Hitoshi Takano Dec/2006
むべ山風を
(後編)
前回のあらすじ:ショウタは、大学1年生。大学のカルタサークルで活動している。練習場所を飛び出してしまい、自分とカルタの
関わりを思い出していた。そんな中、先輩からOBと一緒に食事をしようと誘われる。
今日の練習は五時までだった。日によっては夜の練習があり、九時半まで会場が使えることもある。夜の練習がある時は、OBが仕
事帰りに寄ることもあるが、夕方までの時には、OBが来るには早すぎる。待ち合わせの店に先に行って、待つことになる。
OBが来るまでは、先輩たちのよもやま話に耳を傾けていた。先輩たちも意図的に本題には触れないようだった。
今日の話題は、間違いなく所属会の移籍問題だろう。自分は、今でも東京山風会の所属選手なのだ。競技カルタを統括しているの
は、社団法人全日本かるた協会であるが、選手は、この協会に登録している協会傘下の団体を通じて協会員として登録している。し
たがって、所属会がないといけない。地域に根ざした会もあれば、学校単位での会もある。要は、自分に大学のカルタ会に移籍しな
いのかという話しなのである。
大学のサークル活動としては、その大学の学生なのだから、活動に参加することは問題ないのだが、大学のサークルとしての会と
社団法人全日本かるた協会の傘下団体としての会との二つの顔をもっているがゆえの問題である。私は、その二つの顔それぞれに顔
をもっているが、一つにしてはどうかということである。
以前から先輩たちに言われてきたが、のらりくらりとかわし続けてきたのである。この問題を考えること自体を自分の中で拒否し
続けてきたのである。考えるのが嫌だったのだ。決められないのだ。断るにしても、受けるにしても、どちらかを否定することにな
りかねない。どちらからも嫌われたくなかったのだ。
OBは二人来た。卒業して三年目の原田と卒業して二十年以上の川村だった。どちらも、新入生歓迎会であったことのあるOBである。
食事と言いつつ、結局は飲みながらの話しになる。話題は予想どおりだった。
「入学して半年、そろそろ、うちの会にも馴染んで来たころだろ。練習をうちで続けていることだし、移籍してもいいころじゃな
いか。」
「まあ、今までお世話になったということもあるだろうから、大学在学中だけの移籍という考え方はできないかな…。」
「山風会の練習に行ってないって聞いてるけど、会が違えば、日頃から練習している相手と大会の一回戦からあたる可能性がでて
くることになるぞ。それでもいいっていうかもしれないけど、それは、お互いやりづらいし、おもしろくないんじゃないか。」
「職域・学生大会や大学選手権は、在学の大学チームで出場できるけど、会対抗戦は同じチームで出場できなくなるよ。日頃練習
している仲間と会もチームも一緒の一体感があったほうがいいだろう。」
「今年の一年生の中じゃ、ショウタくんだけが経験者だ。他の一年生への影響を考えた時には、やはり、同学年のチームワークで
同じ会のほうがまとまれると思うんだけど…。」
「こう言っちゃ悪いけど、山風会の現役選手って最近は試合会場で見かけないし、聞かないよな。会としての活動も聞いてないし、
そう義理をたてなくとも…」
「先々代の会長が亡くなってから、後継者問題でいろいろもめたように聞いているけど、実際のところどうなんだい。」
回答せずに黙っているものだから、二人のOBは、交互にいろいろなことを言ってくる。たしかに、東京山風会は現在は競技カルタ
の一般会としての実態がないといえばそのとおりなのだ。
自分が小学生のころは大きな会だった。創始者である初代会長は、自宅に三十六畳の道場を持ち、毎日のように練習が行われていた。
有名選手も多くいて、大会の優勝争いにはいつも山風会の選手が絡んでいた。
中学にあがってすぐに、会長がなくなった。その後、会長代行をカルタを取らない未亡人がつとめ、三人の高弟が練習の担当曜日
を決めて会の運営にあたっていた。
しかし、指導方針の食い違いから、その高弟一人が指導方針に共感する会員を引き連れてすぐに独立して別の会を結成して出て
いってしまった。
残った二人は、最初はうまくやっていたが、自分が高校にあがったころには、やはり指導理念に相違が生じ、一人は練習や指導の
担当をやめてしまい、会には来なくなってしまった。同じ考えの会員も一緒に去っていった。自分が小学生の時分にお世話になった
丸山先生もこのとき以来、会に顔を出さなくなったし、大会への出場や小学生への指導など一切やめてしまった。
残った一人はこの事態に対処するために会長職を継いだが、ただでさえ少なくなっていた会員の中にも相次ぐ離反騒動に嫌気をさ
したせいか、去っていった人もあった。そういうわけで、残った会員はわずかだった。
その二代目会長の就任直後に、会長代行をつとめていた初代会長の未亡人が亡くなった。相続した初代会長の息子は、相続税の
支払いのため、道場を売却してしまった。練習場所もジプシー生活を余儀なくされることになった。
常設の道場という恵まれた環境を背景とした豊富な練習量を誇った東京山風会も、道場の喪失と会員の減少で練習も細々とした
ものになってしまった。
自分は、大学受験があり、このころには練習を休んで受験勉強に専念していたが、現役では大学受験を失敗し、浪人してしまった。
この浪人の最中に、ニ代目の会長が亡くなった。会長を継ぐべき会員は残っていなかった。結局二代目の会長の息子が、会に残って
いた現役を引退した年老いた初代会長の弟子数名から推されて三代目を継ぐことになった。しかし、三代目は、もともと競技カルタの
選手としては強くならずに引退し、カルタの世界の仕事に情熱を注ぐというよりは会社運営に超多忙な人物であった。現役選手として
の会員は、自分を除けば皆無になったといってもいいだろう。OBの原田が言うように東京山風会としての練習も今ではほとんど行われ
ていない。
自分の練習場所は、一浪で無事に入学した大学のカルタ会ということになっていたのだった。
この一連の会の衰退状況は、子供のころから関わってきた一人として非常に寂しい思いをした。
子供だったこともあり、会の大人達からは、非常にかわいがってもらった。練習に行けば、お菓子をくれたり、はげましてくれ
たり、誕生日を祝ってくれたりした。そして、中学にあがる前くらいになると、東京山風会の歴史を語ってくれる人もいた。会と
いう組織でいろいろな人が力をあわせて運営にあたり、組織としての一体感が全体のレベルアップや底辺の拡大につながるという
ような子供には、あまり興味のないことまで話してくれた。子供心にも、力をあわせることや、仲間意識やひとりひとりの役割の大
事なことなどが、熱心に語ってくれる大人達から伝わってきたものだった。
その話しを聞かせてくれた大人達自らがバラバラに分裂していったのだ。言っていることとやることの違い、建前としての言葉
と本音としての行動の違い、大人の身勝手さといったものを肌で感じてしまったのだ。
特に真の師匠と仰いでいた丸山先生が来なくなったと知った時のショックは大きかった。この時に自分もやめる可能性があった。
しかし、自分がカルタをやめることは丸山先生との繋がりを失うようでこわかった。なによりも、カルタを取っていないと落ち着か
ないのだ。なんのとりえもない自分という認識の中で、カルタだけが唯一自分がそれなりにやってきたといえる場所だったのだ。
「………」
先輩達の話しに昔を思い出し、言葉を発せぬまま、様々なことに思いをはせていた。
「ん?どうしたんだ。」
ふと気づくと、涙が頬をつたっていた。
「いえ、別に…。」
自分でも意外だった。子供の自分をかわいがってくれた大人たちの分裂・離反の想い出が頭をよぎり、その身勝手さやいいか
げんさ、無責任さに傷ついた当時の気持ちがよみがえってきたようだ。
「東京山風会というのは戦後まもなくできた会でね。初代会長の羽鳥さんが一代で大きくした会なんだ。」
涙に驚いたのか、OBの川村は本題ではなく、話題を微妙にそらして、他の現役の先輩達に話すような感じで話し始めた。
「私は知らないんですが、羽鳥さんっていう人がすごかったんですか?」
OBの原田が川村に尋ねる。
「まあ、一代であれだけの会をつくり、強い弟子を育てたんだ。普及に果たした役割も大きいし、カリスマ性がないとみんな
ついてこないんじゃないのか。」
「……。大先生は、ぼくにとっては、いつもニコニコ微笑んでいるやさしいおじいちゃんっていう感じでした…。」
初代の会長の話しになり、つい話しをしていた。頭の中に浮かんできた想い出が言葉になって、自然に口から出てきたと
いった感じだった。
「そうか、やさしい人だったんだ。」
「ええ、子供達にはやさしい方でした。」
「俺は、学生のころ練習に出させてもらったことがある。いるだけで存在感のある威厳のある人だった。お弟子さん達の
練習を見る目の厳しさは今でも忘れられない。あの目で見られていることを感じたら、生ぬるい練習などはできないと思った
ことを覚えているよ。」
「これは、大先生からではなく、小学生クラスを担当していた丸山という先生に聞いた話しなんですが、大先生は、小学生
のころからカルタ教室に通う子には、カルタの楽しさを教えなさいと言っていたそうです。」
「なるほど、楽しさか…。」
「子供は、特に勝った、負けたでストレートに喜びや悔しさの感情が出るものだから、競技に勝つことにのみ楽しさを感じる
ようにしては駄目だということだそうです。子供の時分から始めていると、必ずいつかは壁にぶつかってしまう。小学生相手に
は勝てても、大人には勝てない。強くなるためには強い相手と取らなければならない。どこかで負けが続く時がある。その時に
勝つことだけに楽しさを感じているとすると、負けるからつまらないということになってしまい、競技から離れていってしまう
ということです。子供は、興味をもったことには集中して上達のスピードも早いのですが、飽きるスピードも早いんです。大先
生は、子供たちに一時の楽しさではなく、生涯を通じてカルタを楽しめるように指導していきたいという方だったんです。です
から、勝ち負けよりも、札を取ることの楽しさを感じさせるとか、カルタ会の練習にくること自体が楽しいような工夫というこ
とに心を砕いていたということです。」
「ショウタくんは、何かそういうことを感じていた?」
「とにかく、会にいけばお菓子とかくれたり、大人の人達はみんな優しかったですね。そして勝っても負けても、必ずいいと
ころを見つけてほめてくれました。負けて悔しくて泣いていても、慰めてくれて、落ちついたところで何かしらいいところを見
つけてほめてくれました。最初は、わけもわからず、お菓子めあてで行っていたこともありますが、じきに大人からほめられる
ことが嬉しくて行くようになりましたね。だから、会に行って、札を取るということが楽しくなるんです。」
「ほかに何か指導方針みたいのはあったの?」
「これも丸山先生からの受け売りですけど、大先生の方針で、小学生クラスの子供には、無理な身体の使い方をさせるなとい
うのがありました。」
「えっ?それって、どういうこと?」
「小学生ってあたりまえですけど、身長が低いじゃないですか。当然、普通にかまえたら、リーチもないですから、敵陣の奥
まで取りにいこうとしたら無理なフォームになるわけじゃないですか。そういう無理なフォームの癖が残ってしまうから、攻め
が大事だから、敵陣を取りにいかなきゃ駄目だなんていうことを強調しないんです。」
「ふ〜ん。」
「子供の身体にあったフォームで、きれいに取ればいいんです。手が届く範囲できれいに払えばいいんです。早く取れば
褒めてくれますが、きれいな払いをすると取れなくても、払いがきれいだったと褒めてくれました。ですから、丸山先生は
大先生から、子供達の身長の成長具合をよくみて、フォームを身長にあったものになるように指導するように言われていたそうです。」
「ショウタって、小学校のころからやっていて、どんな感じで昇級してきたの?C級とかB級とかいつごろ上がったんだ?」
「小学一年で山風会の小学生クラスに入りました。小学三年生までは、小学生大会にしかでていませんでした。たまたま三年生
のときに低学年の部で三位になりました。五年生のときに高学年の部で準優勝したら、大人にまじって普通の大会のD級に出てもい
いと言われて、一般大会デビューしました。中一の時に三回目のD級三位をとって、C級にあがり、初段をもらいました。高一に
なった四月に二度目のC級三位でB級にあがりました。ここで、二段に昇段しました。その年の六月に初めて首都圏以外の大会に遠
征しました。仙台の大会でした。昇級した勢いがあったんでしょうか、準優勝し、三段をもらったあとは、会のほうがいろいろと
もめて、あまり練習しなくなってしまいました。自分に練習に来なさいとか試合に出なさいと声をかけてくれる人もいなくなって、
たまに練習に行った時に、たまたま来ていた古いお年寄りの会員の方から、試合の申し込みをしないかと言われるとお願いする程
度になってしまいましたね。」
「そんな状態で、よくA級に上がれたよな。しかも浪人の時だろ。」
「自分でも信じられないですよ。よくやめずに続けているなと思っていました。小学生クラスの先生で中学のときもお世話に
なった丸山先生は、私が高校にあがった夏の仙台大会以降には会に顔をださなくなっていたのですが、練習にいけば、試合会場
にいけば、ひょっとして逢えるかなという思いがあったせいでしょうか。」
「ショウタにとっては、丸山先生は大事な存在なんだ。」
「ええ。丸山先生に指導を受けなければ、こんなに長くカルタを続けていることはなかったでしょうね。えーっと、浪人の時
の話しをしていたんですよね。」
「ああ。」
「大学受験があったので、高校三年のときも浪人時代も月に一回練習に顔を出すか出さないかという状態だったんですよ。
特に浪人中は、九月からはまったく練習してませんでした。二代目の会長も亡くなって、会のほうも、どたばたしていたもの
ですから、練習も年配の会員の自宅で人が集まるときだけというような状態でした。自分としては、受験勉強一本です。ニ浪
はしたくないので…。でも、受験勉強でストレスがたまっていたんです。会から来た年賀状に、試合の日程と事前申し込みの
確認が来ていたので、一試合だけ申し込んだんです。親の手前、気分転換と言っていましたが、本当は、ちょっと違いました。
二浪するんじゃないかという不安がふくらんできて、せめて、カルタでもやれば、札をきれいにうまく取れたということだけで
ほめられた昔を思い出して、自分自身になにかしらの自信を持てるのではないかなという思いだったんです。練習してませんか
ら、よもや勝てるなどとは思っていませんでしたが、なぜかあれよあれよという間に勝ち進んで決勝進出です。決勝では負けた
ものの、B級準優勝ニ回で、A級昇級となりました。会のほうから四段の申請をするからと連絡があって、お願いしました。」
「ふーん、会はごたついていても、そういう連絡はきっちりしてるんだ?」
「初代会長の生前から、事務担当をずっとやってらっしゃる方がいらっしゃるんです。この方のきちんとした事務のおかげで、
会としての命脈を保っているようなところがありますね。」
「ボランティアなんだろ?」
「はい。」
「すげぇーな。」
「若いうちから、耳が悪くなって、カルタは取ってない方なんですが、いつもいつもまめに連絡をくれて、感謝しています。」
「そうかぁ。いろいろな人が会をささえているんだよな。それにしても、練習もしてないのに、よく受験前に勝てたもんだな、
無欲の勝利ってやつかい?」
「いやぁ、そんな恰好いいもんじゃないですよ。」
「じゃあ、何だよ?」
「単なる廻り合わせだったんじゃないですか。しいて今言えるとすれば、大学に入ってもカルタを続けるんだぞという天の声
かもしれないですね。」
「亡くなった羽鳥会長さんが力になってくれたのかな。」
「そうかも、知れません。大先生も今の山風会の現状を嘆いていて、昔の弟子に力を貸してくれたのかもしれません。」
「そうかぁ。ところで、ショウタくんは、羽鳥さんとはカルタを取ったことはあるの?」
「ええ、一回だけ。実は、大先生の人生最後の一試合って、私との練習なんです。」
「えぇっ〜!?そうなの?」
「山風会の人もあまり知らない話しなんですが、そうなんです。小学校の卒業式の翌日に卒業証書を見せに練習に行ったんです。
春休みの小学生クラスなのに人が集まってなかったんです。大先生が、突然『稽古をつけてやろう』と言って、取ってくれました。」
「それで、勝った?」
「まさかぁ〜。十九枚のタバ負けです。無我夢中に取りましたが、全然歯が立ちませんでした。」
「八十歳くらいだよな。よく取れるよな。」
「お歳はめされていましたが、元気な方でした。取ったあとで、無理がない払いで取りがきれいだとほめてもらいました。
そして『カルタは楽しいなぁ。楽しいカルタだったよ。』と言ってくれました。」
「『カルタは楽しい』かぁ。いい言葉だね。それが最後の言葉だったんだ。」
「それは、自分が聞いた最後の言葉です。その晩、具合が悪くなって、救急車で病院に運ばれ、四月に入るとすぐに大往生
されたんです。最後の言葉は、………。」
言葉が詰まった。再び、涙があふれてきた。
「……、奥様に……、『会を頼む』…、 だったそうです…。」
ハンカチで涙をぬぐう姿に、川村は、また、話題をそらした。
「原田、山風会って名乗っている会はいくつあるか知ってるか?」
「えっ?なんですか唐突に。」
「知ってるのか、知らないのか。どっちなんだよ。」
「まったく、川村さんたらやぶからぼうに…。えーっと、東京山風会ですよね。武蔵山風会、宇部山風会。三つですか?」
「いや、そんなもんじゃきかない。北からいくと八戸山風会、荘内山風会、いわき山風会、大洗山風会、武蔵山風会、東京山風会、
柿生山風会、安房山風会、宇部山風会、豊後山風会、那覇山風会。十一あるんだ。」
「でも、それって全部、全日本かるた協会の傘下団体ですか?」
「県協単位で隠れちゃっているところもあるけど、地元では、この名前で活動しているからな。」
「いわゆる暖簾わけですか。」
「俺も詳しいことは知らないが、暖簾わけ系と偶然同じ名前というのとあるみたいだ。」
話をそらすつもりなのだろうが、こういう話ならば関わらざるをえない。
「荘内と宇部は、東京山風会とは関係ありません。八戸、いわき、大洗、安房、豊後は、初代会長の生前のいわゆる暖簾わけです。
東京山風会で稽古を積んだお弟子さんが、転勤や帰郷などで地方に行って立ち上げた会で、会長に断りを入れて名乗っています。」
「そうすると残る武蔵と柿生と那覇は、どういうことになるんだ。」
「那覇は、二代目の会長の時の暖簾わけです。名称使用の断りは入った上でのことです。柿生は、初代の未亡人が会長代行の
時代に何人かの弟子を引き連れて分かれていきました。名称使用については断りは特に入らなかったそうですが、会長代行も、
好きにすればよいとアクションをおこさなかったと聞いています。武蔵も、うちにいた人が弟子を引き連れて出て行ってつくった
会ですが、勝手に名乗っているという感じです。」
「何かいわくがありそうだね。」
「初代会長が亡くなったあとは、未亡人が会長代行となり、三人の高弟に指導・運営が実質まかせられたんです。このとき、
わりとすぐに一人がシンパの弟子を引き連れて独立します。この人は、山風会を名乗りませんでした。『むべ山風を嵐といふらむ』
ということで、嵐会と名乗っています。」
「なるほど、風の上に山を乗せれば『嵐』だよな。」
「武蔵は違います。ここの現会長は、むらくも会から滝の音会を経て、初代会長のときに山風会に転会してきました。そして、
八十島会に移っていき、初代会長がなくなってしばらくして、再び山風会にもどってきましたが、山風会の中で、仲間を募ると
勝手に武蔵山風会を名乗って独立していきました。これには、当時の会員は相当怒っていました。山風会を名乗らせるなという
声も随分聞きました。他の会でも、いろいろと自分勝手な行動で問題を起こして渡り歩いていたようです。そういう人を、また、
受け入れたというのは、よく言えば懐が深いというのでしょうが、悪くいったらただのお人よしですよね。会の中が、ごたごた
しているところを、うまい具合に選手の引き抜きに利用されたんです。」
「ショウタくんも、いろいろな苦労があったんだなぁ。」
「個人レベルで他の会に移籍していった人もいっぱいいます。会の中が、うまくおさまらないときこそ、みんなが力をあわせて
盛り立てていかなければならないんじゃないですか?」
「そうだ。」
「口では立派なことをいっても行動は違うんです。中学・高校の時分にそういう大人達の姿を見てしまったんです。言葉と行動
が一致せずに出て行った人達を信用できないんです。」
「………。」
「だから、……、だから、自分は移籍できません。」
「えっ?」
いきなり今日の本題に答えがあったことにみんな驚いたようだ。
「いきなり、なぜ、そういうことになるんだい。」
「自分は、自分が信用できない人たちの仲間になりたくないんです。様々な事情があって、自分の競技人生を考えた上で、
状況に応じた結論を出して行動したことは、今ではなんとなくわかるし、仕方ないのかなとも思いますが、理性でわかってい
ても感情がついていかないんです。自分が移籍するというのは、たとえ在学中の間だけであってもいやなんです。」
こう言うと、ハンカチで目頭をおさえた。
「そうか、ショウタくんの気持ちは、よくわかった。もう、移籍の話はなしにしよう。」
涙は、しばらく乾かなかった。
川村も、原田も、そこにいた先輩達も黙っていた。
川村が、ぐいっと杯をあけた。
「『カルタは楽しい』、いい言葉だ。」
川村が、かみしめるように言った。
この一言が、心に沁み込んでいった。
……… 完 ………
(C)2006.12 Hitoshi Takano
前編へ
☆☆ 作品集のページへ ☆☆
次のTopicへ 前のTopicへ
☆ トピックへ
★ ページターミナルへ
☆ 慶應かるた会のトップページへ
★ HITOSHI TAKANOのTOP
PAGEへ