愛国百人一首

佐久良東雄

天皇に仕へまつれと我を生みし
   我がたらちねぞ尊かりける


<愛国百人一首における決まり字>
オオキミニ(5字決まり)
<愛国百人一首における同音の数>
オ音20枚のうちの1
<歌意・鑑賞>
 母が自分を生んでくださったのは、ただ、天皇にお仕えしなさいと生んでくださったので ある。思えば尊くありがたいことである。
 「たらちね」は母に掛かる枕詞であったが、のちには「たらちね」自体が母親をあらわす語となる。
<コメント>
 常陸国の人。9歳で下林村の観音寺の住職の弟子となり、師匠から図書数百巻を与えられ大いに学ぶ。 天保6年真鍋村善応寺の住職となるが、同7年に天保の大飢饉がおきると愛蔵の書籍を売って民衆の 救済に尽力した。寺務の傍ら国学を請うじ、東雄と号した。藤田東湖や 会沢憩斎などが来遊する。
 天保13年32歳で、平田篤胤の門に入る。翌年、仏門を離れ、 佐久良靱負と名乗る。江戸に出て国学の研究をおこなう。弘化2年京都に赴く途中で 足代弘訓を訪れる。大坂で神社の祝部となり、国学を講ずる。 その後、京都に出て、安政5(1858)年、神祇道学師の称号を受ける。桜田門外の変の際、 高橋多一郎親子を匿う計画をしたが、東雄は捕らえられ、江戸 に送られる。獄中にて絶食して死亡。50歳であった。

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2008年6月9日  HITOSHI TAKANO