シン・後輩への手紙(III)
Hitoshi Takano Aug/2022
I氏の訃報
前略 Iさんの訃報に接し、驚いています。
H君にとっての師匠ですから、哀悼の想いは深いものとお察しいたします。
H君には、師匠と弟子という点では特別な思い出があることでしょうから、私がIさんとの思い出を語ることがどうなのかはわかりませんが、
故人の思い出を語ることは、故人を忘れずにいることでもありますので、少しばかり語らせてください。
私が初めて、Iさんと出会ったのは1982年1月10日に近江神宮においてです。
出会ったというよりも、競技かるたの選手として認識したというべきでしょうか。
日付や場所が正確にわかっているのも、この日が高松宮杯の大会が行われていたからです。
前日は名人戦・クイン戦で、クイン戦に慶應OGのK元クインが出場するので、その応援とセットでの出場でした。
私は、当時大学3年で、A級選手になって半年でA級選手の壁にぶちあたり連敗中でした。
この日の目標は、A級での大会初勝利でしたが、のちにクインになるYさんに18枚差で負けて、A級の強豪選手の強さを目の当たりにしました。
この応援&高松宮杯出場の遠征ツアーに同行していたのが、当時大学1年生でB級ののちの永世名人のTさんとC級のSさんでした。
TさんとSさんの目標は、上の級への昇級ということで、早々に敗退した私は、TさんとSさんの応援に回りました。
TさんとSさんは順調に勝ち進み、Tさんは決勝でのちに准クインとなるNさんに勝って優勝し、A級に昇級しました。
Sさんは、決勝で前年9月の東大阪大会でB級優勝していたにも関わらずC級に出場していたYさんに破れて準優勝でしたが、B級への昇級をつかみ取りました。
私は前年の金沢大会のB級で優勝してA級に昇級したのですが、その1週間前の東大阪大会のB級1回戦で対戦したのがYさんでしたので、そのYさんがC級で出場していることに驚いていました。
このSさんが出場していたC級にIさんが出場していました。準々決勝を勝ち抜けた4人にIさんがいました。
準決勝の対戦がどうなるか、Yさんの強さは私が身をもって知っているので、Sさんにとっての一番の強敵はYさんです。
ドキドキしながら対戦者の決定を見ていると、SさんはYさんをはずし、Yさんの相手はIさんとなりました。
そしてYさんがIさんに勝ち、Sさんとの決勝となりました。後日談ですが、YさんはB級優勝を4回もしています。
本人が何故、はやくA級にあがらなかったのはわかりませんが、B級優勝した後にC級に出て優勝するとか、様々な伝説を残しています。
その時の印象ではYさんの強さが目立ち、Iさんの強さはわからず、Sさんにとっての一番のあたりはIさんかなとも思っていたのですが、勝敗にIFはありませんが、
もしもSさんがIさんと準決勝であたっていたら、今思えばSさんの決勝進出はなかったかもしれません。
このときに、私はIさんの実年齢を知らなかったので、地元の少年選手という感じでIさんを認識したのです。
そして、2年後の1984年、私は、早稲田大学の練習会場で大学1年生となったIさんを再び出会うのでした。
あの時の彼だとすぐにわかりました。そして、初対戦は7月25日、早稲田大学の第II学館の和室でした。15枚差で敗れ、Iさんの強さを実感しました。
この年、当時は8月に行われていた高校選手権に私の母校が初出場するというので、応援にいくことになるのですが、
Iさんに連れられて妹さんの高校の練習にうかがわせていただき、妹さんと取らせてもらいました。
翌年1月には、Tさんの名人戦初挑戦の応援と高松宮杯出場と京都新聞社杯出場というスケジュールの中、あつかましくもIさんのお宅に宿泊させていただきました。
ご実家において、高松宮杯と京都新聞社杯の間の中一日となっていた1月14日に1試合練習させていただきました。この時は14枚差で敗れています。
その後も、高校選手権の母校応援で実家に泊めてもらったり、大学の垣根を超えて交流させてもらいました。
1986年1月31日、早稲田大学の練習場所の天祖神社で、3度目の対戦をしました。Iさんは、さらにパワーアップしていました。
結果は25枚差の負けです。とはいえ、パーフェクトゲームを喰らったわけではありません。3枚取って3回お手つきしたので、この結果となったのです。
スピードで圧倒され、負けじとはやく取ろうとお手つきをして、もうどうにもしようがない試合となりました。
こちらに札が集中するので、友札も集まってきます。同音の札を左右と上段の中央の3カ所に分けておくのですが、3枚すべて取られるのです。
1枚目の払いが早く、違う側に手を出すつもりでいるのですが、「あっ、こっちを払われたから逆に手をだそう。」としている間に、
パッパッと残り2カ所も取られてしまい、私は、ただなすすべなく相手の取りを見ているのです。
感想としては、渡り手の概念を超えた三段突きのようなイメージです。
車田正美さんの名作漫画「リングにかけろ」の登場人物の一人「志那虎一城」のスペシャルブロー「ローリングサンダー」のイメージといってわかってくれる世代でしょうか?
私がIさんに命名したのは「千手観音」です。三段突きというよりも、残像効果なのか手が何本も出てくるのを感じたからです。
その後も、親しくさせていただき、自身の高校時代の部活や趣味の話だけでなく、京滋のカルタ界事情・高校情報などを教えてもらいました。
某局のテレビドラマ「宮本武蔵」にエキストラ出演をした話なども聞きました。これも縁だったのでしょうね。
また、Yさんに負けた高松宮杯C級の話も聞きました。
受験勉強に入るための一区切りの大会だったとのことで、Yさんを下の名前で「ちゃん」付けで呼んでいたので、
小さいころからこの世界に身を置いていることで形成されるコミュニティーの中にいる存在なんだと思いました。
私自身は大学からの競技生活なので、また、それとは異なるタイプのカルタ・コミュニティーの一員ということで、なんとなく差異を感じたものです。
さて、IさんがT名人に名人戦で挑戦したのが1989年ですが、当初予定の名人戦の日に昭和天皇が崩御されました。
私は、将来の伴侶を連れて近江神宮で観戦予定でした。延期になるのだろうなと思いつつ、近江神宮に行き、Iさんに未来の妻を紹介したことも懐かしい思い出ですし、
家内もよく覚えています。
T名人と先ほどのSさんは、それぞれ卒業後に新聞社に務めました。Iさんは放送の仕事につかれました。それぞれマスメディア業界で、仕事をされたことに何かの縁を感じます。
Iさんといえば、衛星放送で名人戦・クイン戦の中継放送に携わられていたことが特に思い起こされます。
ICU若菜会で競技かるたの選手として活躍されていたTさんが、Iさんと一緒に準備をされているのを垣間見て、
かるた界もいろいろな分野に複数の人材を送り込んでいるのだなぁと思ったものでした。
その後、三田仲通りで、仕事帰りにばったりIさんとあった偶然もありました。
最後にお会いしたのは、2011年5月14日になります。場所は、近江神宮です。
私が出張のついでに出場したシニア選手権の運営のメンバーのおひとりでした。
そこには、Y元クインもいました。Y元クインが弱小選手の私のことを覚えていてくれたのは意外でしたが、嬉しくもありました。
その時のIさんさんは昔とかわらず、笑顔で頑張ってくださいと励ましてくれました。
こうして、Iさんとの最初の出会いと最後の会話をふりかえると、どちらもカルタの試合と近江神宮ということになります。
そこに集っている人たちも、競技かるたの選手です。「かるた」の縁の素晴らしさを感じます。
最後にIさんが、「決勝戦であたったら譲りますよ。」と言ってくれていた言葉を思い出します。
私に力がなく実現することはかないませんでした。
とはいえ、私とIさんとを出会わせてくれたカルタは引き続きがんばります。
H君はIさんの弟子として、私はIさんの友人として、悲しさ・寂しさを乗り越えて、同じ職域チームの団体戦メンバーとして、お互い頑張りましょう。
草々
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