平兼盛

忍ぶれど色に出にけり我が恋は
   ものや思ふと人の問ふまで


決まり字:シノ(二字決まリ)
 光孝天皇の曾孫の子、である。天皇家の血脈が姓を賜り、その代表的な姓が源氏や平氏 であるが、百人一首中、「平」姓で表されているのは彼一人である。(女流歌人では平氏のものもいる。)
 当時としては長寿で70歳をこえる寿命だったようだ。けっこう歳をとってから、 駿河守になったようで、駿河守時代のエピソードが、尾崎雅嘉の百人一首一夕話に 紹介されているが、申文という訴状の中にも和歌が用いられていることを紹介した エピソードに過ぎず、天徳歌合のエピソードに比べれば、ドラマ性に欠ける。
 さて、「百人一首一夕話」は天保4年に刊行されている。百人一首の作者ひとりひとりに まつわるエピソード等が紹介されており、百人一首の愛好家の楽しみのひとつになって いる。

 彼の場合は、やはり次の歌である壬生忠見との天徳歌合の際のエピソードのほうが 有名である。そのエピソードは、私も忠見のほうで取り上げたが、尾崎も同様でメイ ンは忠見の項で取り上げている。兼盛の項では、勝ちを知り喜んで帰っていった程度 にしか触れられていない。勝者ではなく敗者のほうでドラマ性を持たせて取り上げた のは、尾崎の感性であったのだろう。
 「忍ぶ恋」がテーマの歌は、天徳歌合で番われた「恋すてふ」の歌が百人一首では 次の順番に来ているが、この歌の前の参議等の「浅茅生の」の歌も同様に「忍ぶ恋」 がテーマとなっている。奇数・偶数の順に二首ずつペアにしてみてくると、「浅茅生」 が39番で「忍ぶれど」が40番なので、天徳の歌合とは異なり、この二首で比較をする という見方もできるような気がする。
 百人一首は宇都宮蓮生の山荘の襖にはる色紙として撰んだ百首という説がある。その 時のはり方は、二首ずつをはったのではないかともいわれている。もし、現在に伝わる 順番で百首が二首ずつはられたとすれば、「浅茅生」と「忍ぶれど」がはられたことに なる。それは、忠見のエピソードのゆえに、並べはしたもののあえて順番的に「浅茅生」 をいれてずらしたかなともかんぐることもできるだろう。
 もちろん、襖への二首ずつのはり方は、こうしたいわゆる現在に伝わる番号順ではなく もっとも適切なものを二首ずつはったのではないかという説もあり、そうすると天徳歌合 の二首は同じ襖にはっていたかもしれない。
 ただ、負けたために不食の病で死んでしまったと後世に伝説を残した忠見の歌をあえて 勝った兼盛の歌と一緒にはったのかというのが正直な感想である。いわゆるまじないなど が信じられていた時代である。そして歌には鬼神をも涙させる力があると言われていた 言霊信仰的なものがあった時代である。負けた歌を勝った歌と一緒にはることは、その負 けた忠見の怨念が宿るように当時の人間は思ったのではないだろうか。
 ただ、忠見には、怨念は宿ったとしても、怨霊になるには欠格事項があった。それは、 身分が低いということである。当時、怨霊として認められていた菅原道真は、右大臣で あったし、崇徳院も崇道天皇と諡号された早良皇太子も皇族であった。そして、あえて いえば、政治的敗者でもなかったということであろうか。身分が低いため、政治的に 重要な存在でもなく、政治的な敗者たりえなかったわけである。
 少々、荒唐無稽な方向に話がいってしまったかもしれないが、ひとつのエピソードが いろいろなことを考えさせてくれる。これが百人一首の魅力のひとつであるのかもしれない。

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2008年4月2日  HITOSHI TAKANO