定位置の話

Hitoshi Takano JULY/1999

1)はじめに

 この間、練習に行くと、最近入会した1年生が定位置をどうしようかと先輩達に囲まれて、決めている光景に出くわした。先輩たちのアドバイスを受けながら、この札は右下段にしようとか、左中段にしようとか悩みながらも、一応は格好がついたようだ。
  そんな光景をみたことから、少々、定位置の話をしてみたくなった。
 

2)「定位置」とは

   「定位置」というのは、競技かるたを行う際、最初に来た持ち札25枚を自陣のどこに置くかという時の「自分なりに決めた場所」という認識をしてもらえればよいだろう。たとえば、競技かるたは、3段に札を並べるわけだが、「な」で始まる札は、右と左の中段にわけて置くことにしようとか、「お」で始まる札は、左下段と右上段にわけて置こうというような自分自身の決め事である。このわけ方にしても、「な」なら、「なにし・なにわが・なにわえ・なつ」は右中段にして、「ながか・ながら・なげけ・なげき」は左中段にしようというところくらいまでは決めてある。このような同音の札の中にも、左中段の4枚は、「ながか<ながら<なげけ<なげき」の順で内側優先度が高いとかまで微細に入り、決めている人達も多い。

  下段が総じて多い人とか、上段が多い人とか、右側に札が多い人とか、札と札の間をあけずに置く人とか、離して置く人とか、置き方の特徴も様々であるし、どこにどの音の札、何の決まり字の札を置くかということでも、人それぞれである。
  定位置とは、その選手の個性でもあるし、競技をどう進めていきたいかという意思表示でもある感じがする。
 

3)「定位置」の効用

  なぜ、定位置なるものを決めるのであろうか。
  それは、常に自陣の札の場所が一定であれば、日頃の練習により、慣れで自然にそこに反応しやすくなるということである。敵陣を攻めて、出札がそうではなく自陣にあるトモ札のほうに戻る場合、「自陣にその札があり自陣に戻って払う」という判断をした時点で、「それでは、自陣の右下段に戻るのだ」という認識を条件反射により、ショートカットして「自陣に戻る=自陣右下段に戻る」という動作がスムースに行なわれるということなのである。
  ここでは、自分にとって取り易いという価値判断が存在する。しかし、自分にとって取り易いという場合、相手にとって「覚え易い」とか「取り易い」ということも間々ある。

  そこで、定位置の効用を考える時、相手にとって取りにくいという価値判断が存在する。もちろん、相手を特定して考える場合もありうるが、ここでは一般論として述べている。「相手の狙いを分散するには、どのような定位置にすれば効果的だろうか」などと考える。同音で始まる札をあまり固めたりしないようにするとか、大山札(6字決まり)の札は、自分が囲い易く、相手にとって囲いにくそうな場所に置くとか、世間一般の人があまりしない置き方、したがって、普段からそこの場所でその手の札を取ることに慣れてないような場所に置くとかといった工夫をこらすのである。
  ただし、相手にとって取りにくいということは、自分にとってもとりにくい要素になっていることは否めない。

  しかしながら、自分はいつも、その定位置で練習し、かるたを取っているわけである。したがって、自分は、その相手にとっても取りにくい配置には慣れてくるのである。その慣れがあるからこそ、「相手にとって取りにくく自分にとって取り易い」理想の定位置を組むことが実現可能なのだ。
 

4)定位置の伝播

  ある会の所属者の定位置は、やはり似てくるということがある。これは、一人の指導者が指導していくことで似てくる場合もあれば、身近にいる先輩の真似をしているうちに似てきたりということもある。
  試合で対戦した相手の並べ方にヒントを得て取り入れるようなケースだってある。

  慶應に、その昔、熱心な選手がいて、遅れて入ってきた同級生や、後輩に初歩から手ほどきをした。勿論。定位置も指導した。「かるたは、攻めを基本とする。」その選手は、そう教えた。「攻めを基本とする時、自陣の左上段は戻って払う際に敵陣をひっかけやすい。左上段に置く札は、左端から数枚内側に寄せて置き、一枚一枚離して置くようにしたほうがいい。」その選手は、自分の経験から、そう教えた。したがって、その頃の慶應の選手には、この手の並べ方が多い。
  定位置は、時としてこのような伝わり方をする。しかし、その選手の経験を、ふまないままで、その定位置にしてしまってはたしてよかったのだろうか。ひょっとしたら、その左上段に戻る時敵陣をひっかけやすいというのは、その人固有の欠点で、他の人は、ちょっとの練習で克服できる問題かもしれないのだ。同じ欠点を持つ人なら、先人の経験を教わり、それを受けいれることで、遠回りをせずに済んだというメリットがある。しかし、そういう欠点を持たずに、逆に左上段の取りに独特のセンスや速さを持つ人だったとしたら、それは、その才能の芽を摘んでしまったことにはならないだろうか。

  私は、定位置は、自分でいろいろ工夫し、自己の経験をベースに組み立てていけばいいと思う。それが、上達の遠回りになるとしても、わずかな遠回りに過ぎないと思う。「急がば回れ」という言葉もある。選手生活の長いスパンで考えれば、その工夫の試行錯誤経験も、競技を行う上での益になることがあるだろう。定位置は、選手の個性である。みんな同じ定位置ではつまらない。

  ある会社のつくった札には、早取り法の栞が入っている。これに定位置の例が載っている。ある大会で、初心者の部をみると、随分多くの人がこの並べ方を取りいれていたことを思い出す。これも、あくまで例として載っているのにすぎないのだが…。これも一つの権威なのだろうか? 読者に権威を感じさせる場合、文字メディアの影響は大きいという事例だろう。
 

5)定位置の変化とその意味

  定位置は、それぞれの人の中でも変化する。最初は、同音が固まっていて相手にもわかりやすく、形も左右三段にまんべんなく配置されている四角が左右に二つといった趣きのものから、段々に複雑化し、同音でも場所がわかれたり、形も左右のバランスがくずれ独特のものになっていったりする。
  中には、最初のまま強くなっていってそのままの人もいるし、独特の形で固まっていく人もいる。そして、その中でも、また、キャリアを積んで行った先が、最初の時のように同音が固まって相手にわかりやすい並べ方に戻って行く人がいる。定位置の回帰現象だ。

  変わったケースもある。 「定位置がない(定位置を持たない)」という人もいた。持ち札25枚をシャッフルして、順番に適当に左右に配分して置いていっても問題なく取る人だった。後年、「俺も堕落したな。定位置らしきものができてしまった」と言ったが、この人は、その場その場で、一期一会の局面で勝負していたのだと思う。その集中力には、ものすごいエネルギーを要したのではないだろうか。

   定位置が複雑化し、凝ったものになったとしても、勝負の中で自陣で取られる札は取られる。長いこと取っているとそれを痛切に感じる。それよりも、敵陣の札を取って自陣から札を送ることが、試合の行方に対して大きなウエイトを持つ。そう考えると、定位置がなくたっていいという極論も成り立つ。どうせ送り札は、自陣で同音の多い札だ。自陣に同音が固まっているなら、そこから送ればいいだけの話である。そうなると、相手にわかりやすくても自分がわかりやすく札に感じ易い定位置でいいではないかということにもなる。
  定位置の回帰現象は、それはそれで長い道のりの結果なのだ。

  将棋の大山康晴十五世名人は「何故、飛車を振るんですか?」と聞かれ、「大山が飛車を振るとうるさいと相手が思うからだ」と答えたと聞く。勝負は、基本的に競技者の強弱で決まるものである。居飛車でも振飛車でも強いやつが指せば勝つし、弱いやつが指せば負けるのである。それでも、その強い大山名人は飛車を振る。相手がうるさいと思ってくれるからである。
  競技かるたの定位置も、実はそんなものかもしれないと思う。私の場合でいえば、「相手が上段中央にヅラヅラ並べられると嫌だな」と思ってくれるから、そこを定位置にしたという意味合い程度のものかもしれない。実際、自身の定位置のどこか一箇所がまるで取れなくても、敵陣を含め他の箇所を取っていれば、勝てるのである。

6)おわりに

   「定位置」を考えるのは、おもしろいし、奥が深いものであると思う。そして、考え、工夫する過程は、競技かるたをする上で益になることだろう。
   しかし、悩み過ぎることはないのだ。
  単純であろうが、複雑であろうが、格好がよかろうが、格好が悪かろうが、競技かるたでは先に持ち札の25枚をゼロにした選手が勝ちなのだから…。

定位置"方便"説
定位置観の転換

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