TOPIC   "番外編"

"Breakthrough"考(5)  -自分の体験から-

Hitoshi Takano   Jun/2015

 「あざとさ」「休息」「勝てる相手との練習」「枷を外す」という四つの視点で”Breakthrough”について考えてきた。結局、大事なことは、第4回の「枷を外す」ことに尽きるというのが結論なのだが、具体例がないとわかりづらいところから、シリーズを通して事例を紹介しながら書いてきたつもりだ。今回で、最終回にするので、自分の体験から、何が”Breakthrough”だったのかを振り返って紹介してみたい。

敵陣右下段を「抜く」感覚の実感

 大学入学とともに初心者として始めた競技かるたで、「攻め」の大事さは、先輩たちから徹底的に言われたが、なかなか敵陣の右下段を攻めて取ることができなかった。
 私は、大学1年の頃は練習量の多い選手ではなく、年の変わった1月、すなわちかるたを始めて10ヶ月目にしてようやく練習も100試合をこえた程度だった。そうした中、101試合目に私の最初の”Breakthrough”体験が起きた。
 それまでは、A級選手との試合は20枚差前後の負けだったが、この時初めて7枚差という一桁負けを記録することができた。その時の枚差を減らす原動力になったのは、なぜか、その時にできた敵陣右で下段を攻めて抜くということだった。
 もちろん差は開いている。枚数の多い自陣を守って減らそうとして、抜かれまくって大差で負けるというのがいつものパターンだった。しかし、この日は、どうせ自陣を取られるならと枚数の少なくなった敵陣をやけくそになって攻めたのだ。そうしたら、たまたま、攻めていた敵陣の右下段が出た。そして、取れたのだ。送り札は、また右下段に置かれた。そして、送った札を暗記を入れ直して攻めたら、また出て、また、取れたのだ。これで、勢いがついた。何枚か敵陣を取ることができ、負けたとはいえ、初めてA級の先輩相手に一桁差にすることができたのだ。
 このとき、敵陣右下段を攻めて「抜く」という感覚を実感した。それまでは、敵陣の右下段を攻めにいって取れたとしても、払えずに押えたり、払えたとしても、遅い取りで「抜いた」という感覚にはほど遠かったのだ。この経験は大きかった。A級の先輩右下段を何枚も攻めて抜くことができたというのは大きな自信になった。その対戦から8試合後、別のA級の先輩から対A級初の勝ち星をあげることができたのである。
 この感覚の会得という体験が”Breakthrough”になったことは間違いないと思うのだ。

「後輩に負けたくない」思い

 大学2年になり、新入生の後輩ができた。すぐに追い抜かれた後輩もいたが、後輩に負けたくないという思いは、私のかるたに大きな影響を与えたと思う。そもそも、1年のとき、4月から12月までで練習で100試合に十試合ほど満たない自分は、同期の中でも弱かった。しかし、4月から後輩が入ってくることを意識した私は、後輩にすぐに負けたら格好悪いという思いで、一念発起した。1月〜3月の3ヶ月間で74試合をこなした。9ヶ月で90試合の選手が3ヶ月で74試合なので、どれだけのペースアップかはおわかりだろう。
 この思いが、2年生になっても続いていたことは確かで、これが上達へのパワーになった。間違いなく”Breakthrough”に貢献した「思い」といってよいだろう。
 もちろん、この思いは、”Breakthrough”考の第3回で書いた「勝つことに慣れる」ということにも繋がった。新入生の後輩が入ってきた当初は、しばらくの間は「勝つ」体験を前年度以上に積むことができたからだ。
 後輩との対戦からは、勝つだけでなくいろいろなことを学んだ。特に後輩に負けそうになる時の「負けたくない」という思いがその試合においてプラスに作用することもあったが、むしろマイナスに作用する経験を積んだことだ。「負けたくない」という思いが強すぎると力んでお手つきしたり、びびって手がでなくなったりという経験は、のちに試合の最中での心のコントロールの技術のためにおおいに役立った。もっとも、振り返って冷静に分析できるようになったのは、ずっとあとのことだったが。
 今でも、毎年毎年入ってくる後輩の存在は、私のかるたにおいて大きな刺激になっている。

「言葉に出す」プレッシャー

 大学2年の終わり、第35回職域学生大会(団体戦)が3月に行われた。このとき、A級に慶應義塾大学チームは2チームが出場することになった。
 実際に出場したAチームは、当時のベストメンバーを揃えたチームだった。一方、Bチームはベテラン3人と2年生二人のチーム構成であった。特に2年生の二人には今後のためにA級の試合を体験させておこうという人材育成的な起用であったために、主将・副将は2年生二人がつとめることになった。
 この第35回大会は、本来であれば、夏(8月)の大会のはずであった。しかし、会場が取れずに夏の開催は見送られ、春の大会となったのである。というわけで、選手起用をめぐる次の話に関してどのタイミングでされたのかという記憶がいまひとつ定かではない。夏の大会があることを前提にした夏の時分の話だったようにも思うし、春の大会のしばらく前だったようにも思える。ただ、はっきり覚えているのは、自分の発言の趣旨と自分が声に出して発言したという事実である。
 2年生の誰を起用するかが3年生の先輩の悩みの種であった。、当時2年生のダントツのエースはAチーム起用が決まっている。2番手・3番手を誰にするかが問題であった。
 うち一人は、3年の先輩の中ではわりとすんなり決めていたようである。C級できっちり実績を残してB級にあがっている選手である。練習数も多く会への貢献も大きい。2年生の残りのC級メンバーは、ある意味どんぐりだった。1年生の時は練習へよく来ていて、それなりに強かったが2年生になってあまり練習に参加しなくなったメンバーは、練習への参加が少なくなっていた点で選考からはずしたようだった。当時、A級にあったチームの中でBチームとの残留争いに絡んできそうなチームがあった。年配の女性の多いチームであった。そのチームを最大のライバルと仮想した時、このチームの日頃の練習にも参加したことがある、彼女たちにかわいがられているうちのメンバーがいた。彼なら「口でも対抗できる」と起用候補にあげられていた。年配の女性はいわゆる三味線をひくのがうまく、相手ペースにのせられることもあるし、主張の際もそれこそ「年の功」の部分もあったので、「口で負けない」ことは選考のひとつの要素だったのである。こうした話の中、3年生の先輩から「希望があるなら、出たいってちゃんと言えよ。」と話をふられた。
 私は、当時練習量においては全く問題なく、同学年や1年生との対戦成績も2年生としてそれなりになってきていた。2年生の代表としてA級のBチームに出る自負があった。3年生の先輩に言ったのは、B級の選手については、練習にも良く出ているし起用に不満はないということと「口で対抗できるので、年配女性に強いだろうというので選考するのは納得がいかない。練習や最近の戦績で考えてほしい。」ということであった。
 過去の私だったら、そういうことは言わなかっただろう。「いえ、先輩におまかせします。」とさらっと言っていただろう。ただ、その時、練習実績の自負がこう言わせていた。後輩たちの追い上げも大きく、ひょっとすると職域学生大会のA級を経験するのは、今回が最初で最後の機会かもしれない(実際にはそうはならなかったが)とも思っていた。それが、思わずの自己主張になってしまったのだ。
 言った以上は、責任がある。自分にプレッシャーをかける形になってしまったが、もう後戻りはできない。その後の私が指摘した相手との対戦には力が入るようになってしまった。
 さて、そんな経緯をふまえてチーム編成が行なわれた第35回職域学生大会の当日、初A級の団体戦に主将として出場した私は3連敗を喫した。迎えた4戦目は、くだんの年配女性チームである。言った手前のプレッシャーはピークに達していた。私でなく彼が出ていれば勝てたのにと言われる事態は避けたい。当然、そういう思いが浮かんでくる。しかし、試合が始まるといつしかそういうプレッシャーは薄れていった。なぜか試合に集中していけたのだ。
 試合結果は、3枚差の勝利。しかし、その後、同じ相手には二度と勝てずに5連敗を喫している。「言葉に出す」ことのプレッシャーが力になった貴重な体験だったといえるだろう。
 その後、競技かるたの場において、軽々にこういうことを「言葉に出す」ことはしなくなったが…。
 ただ、このことが私の「かるた」とその後の「人生」においての”Breakthrough”につながる体験になったことは間違いないと思うのである。

「涙」をこえて

 「涙」とは、自分の涙のことではない。対戦相手の涙のことである。
 奇しくも、この経験は前項と同じ第35回職域学生大会のことだった。第一試合、優勝常連高の二本柱の一人の女子高校生との対戦だった。対戦は二度目となる。前回の対戦は、前年の1月の新春全国大会C級。私は一回戦で彼女を引き、13枚差で負けた。彼女はそのまま優勝し、現在はA級である。前に対戦したときの、「感じ」の早いかるたの印象は、今回もかわらなかった。音に反応して「ヒュン!」と手が出てきて、私の「感じ」は消されてしまう。
 これは、まずい。タバで負けてしまう。何とかしないと…。
 自分の思いとは別に、何もできないまま、相手の札は減っていく。しかし、何かの拍子に相手がお手つきしてくれた。ラッキーと思っていると、お手つきを繰り返してくれる。相手の手が止まった。2字決まりを私が7字目くらいで拾う。「あれっ?」何か様子がおかしい。気付くと相手は、目に一杯涙を溜めていた。 札を送ると、畳の上に涙の粒がポタリと落ちる。あわてて、それをぬぐう相手選手。
 私は動揺した。
 私が泣かせたわけではない、相手が勝手に自分の不出来で泣いただけなのだ。枚差はまだ、相手がリードしている。
 試合において、自分の対戦相手ではないが、泣いている選手を目撃したことはそれまでもあった。なかでも、試合が終わってから、控え室で泣いている選手を目にすることは多かった。まれではあったが、試合中に泣いているケースもあった。自分の主張に強く反論されて泣き出してしまった女子高生を目撃したことは特に印象深かった。
 しかし、自分の対戦相手に、こちらが何もしてないのに泣かれたのには、正直驚きとともに動揺したのだ。この動揺は、私のかるたに影響を与えた。今度は、私が取れなくなった。遅い取りが続いた。ここは試合の最中で、弱みを見せた相手が悪く、ここをチャンスと畳み掛けるのが筋だろうと自分に言い聞かせたものの、時はすでに遅かった。
 相手は、徐々に調子を戻してきたのだ。調子を戻されると「感じ」の差、スピードの差はいかんともしがたかった。ただ、タバ負けにはならなかった。

 この試合を通じて学んだのは、自分の甘さである。
「涙」で動揺するのは言語道断。試合のさなかに泣くのは相手の勝手。チャンスと思って畳み掛けるのが勝負師の心がまえ。
 このことを肝に銘じた試合だった。
 その後、一度だけ対戦相手の女子高生に目に涙を溜められたことがある。この時は、経験がものをいったのだろうか、動揺せず冷静に試合を進めることができ、勝利をおさめた。
 勝負の場での心構えを強く認識したということで、これも私にとっての"Breakthrough"になった経験であった。

「定位置」観の転換

 ここまでのテーマは、私がかるたを始めて丸2年間の間の"Breakthrough"の話であった。最初の「抜く」話の前までさかのぼると、「払い」で畳をスムースに叩けるようになった体験というところにまでいくのかと思うが、さすがに書く分量も少ないので省略した。
 さて、満2年経過後はなかったかのというとそうではないが、あまり大きな話題でもなく省かせてもらった。また、次項にまとめたように過去に書かせてもらったこともあるので、それは、次項に譲らせてもらうこととする。
 というわけで、A級に昇級して以降の自己の"Breakthrough"体験をここでひとつ紹介して、新規の事例紹介はおしまいにしようと思う。

 それは、自己の「定位置」観の変化というか転換という体験である。

 「定位置」については、すでに「定位置の話」というのを"TOPIC"で紹介しているので、あわせて参考にしてほしいが、要するに定位置とは「自分に取りやすく相手に取りにくい自分が多用する配置パターン」と定義できるだろう。
 今の初心者たちは、強烈な「攻め重視思想」の申し子たちなので、あまり、自陣で札を取るということを意識せずに定位置を決めているかもしれないが、私のようなお座敷かるた出身者は、自分のそばに自分の好きな札を置いてそれを取るという意識が強く残る定位置決めであった。
 もちろん、定位置は長い間の競技生活の中で変化していくものなのであるが、定位置に関する思想、すなわち、「定位置」観は大きく変わるものではないと思う。「三つ子の魂、百まで」的なところがあるように感じる。
 私の場合、定位置は「自分が取る」という感覚の強いものである。その思想が最初に来て、次に「自分がお手つきしない」という観点が次に来る。そして、最後に「相手が取りにくい」というスパイスが加わる。 この「相手が取りにくい」というスパイスは、「相手が間違えてくれればラッキー」であったり「相手の手が浮いてくれれば儲けもの」というような感覚である。
 もうおわかりだろう。今は「敵陣の札を取りたい」という強い思いがあって、「自陣への敵の攻撃が分散してくれるような定位置」という思想で最初から定位置策定が行なわれることが多いが、当時の私は、「自陣で自分の好きな札を取りたい。自分が自陣で取らなくてもいい札を敵陣に送る」という、現在の主流とはほぼ反対の思想で定位置を策定したのだった。
 もちろん、競技かるたの世界の中でそれなりに強くなっていけば、「攻めの重視」や「別れ札は敵陣から」という考えに触れ、定位置を大きく変えるところまではいかないまでも、そういったかるたを取るようにはなっていった。しかし、定位置は「自陣で札を取る」ためのものという意識は変わっていなかった。
 ところが、A級にあがると状況は変わった。一流と呼ばれる選手たちと対戦すると、自陣で札を取らせてもらえないのだ。
 A級で負けを重ね、東大かるた会がそれまでの大学他会以上の「攻め重視」を打ち出してきて、東大のB級以下の選手に負け始め、私は「自陣で札を取るための定位置」という「定位置」観を転換しなければならないことをさとった。
 自分の「定位置」観は修正されていった。

・相手が取りやすい場所があってもいい。
・あまりに相手が取りやすい札は自分が取りにくくても相手の攻めが分散するような配置に変えよう。
・自陣が狙われるのはかまわない。狙われて取られたら仕方ない。
・フリーパスで取られるところがあっても、別のところでカバーできればいい。
・自陣は拾うことが大切である。

 要は、「自陣は自分が取ることを前提に考えるのではなく、自陣の札は相手に取られてしかたのないものと考える」という一大転換をしたのである。
 それでも、自陣で守って取る札はいまだにあることはあるが、それが取られることに拘泥はしなくなった。

「定位置は方便である」

  あらためて「定位置」観を言葉にすると、この「方便」という仏教用語がしっくりくるのである。

 この「定位置」観の転換が、私自身のかるたの"Breakthrough"につながったものと考えている。
 しかし、だからと言って、これによってかるたが強くなったとかというと、そうではない。また、弱くなったわけでもない。
 この"Breakthrough"が、何に役立っているかというと、競技かるたを取り続けることへ役立っているのである。

 「自陣を取る」という定位置観だと、自陣を取られたときは少なからず「辛い」のである。この気持ちが精神的なストレスとして蓄積される。ところが「自陣は取られる」という定位置観だと「自陣を取る」ことの拘泥から解放され、精神的ストレスは薄まるのである。
 ここで「定位置」観の転換をしていなければ、このストレスの蓄積のゆえに、かるたが嫌になったり、様々なことに支障をきたし、競技を続けることができなくなっていたかもしれない。
 そう考えると、今の競技生活につながる大きな"Breakthrough"だったと思うのだ。

私の枷を外した言葉

 冒頭に「”枷を外す”ことに尽きるというのが結論なのだが」と書いたが、上記以外にも私の枷を外してくれた事例は、過去に紹介したことがあるので、今回は重複を避ける意味で記載はしていない。興味のある方は、次の文章を読んでほしい。

私のかるたに影響を与えた言葉

 いろいろな方からの言葉が、私にとっての"Breakthrough"になった。私も後輩たちの"Breakthrough"になる言葉を発することができればと望んでいることを記して、本シリーズの筆を置こうと思う。お読みいただけたことに感謝したい。

"Breakthrough"考の”INDEX”

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