TOPIC "番外編"
昭和と平成
〜個人記録の比較〜
Hitoshi Takano MAY/2019
平成31年も4月末をもって終わり、5月から令和元年となった。
ということで、昭和年間に取ったかるたの個人記録と平成年間に取ったかるたの個人記録を比較してみようと思う。
昭和の対戦者数は383人、平成になっての初顔合わせ者数は392人。
約10年と約30年で9人しか違わないというのは、年数よりも試合数の観点で考えた方がよいのかもしれない。
ただ、平成には昭和で対戦した人で平成でも対戦したという人がいる。昭和と平成の両方で対戦している人は35人。
平成で対戦した人の人数で言えば、427人となる。
ジャンル別の表にしてみたので、その数字から何かを感じてもらえれば嬉しい。
|
|
昭和 |
|
|
|
平成 |
|
|
対戦ジャンル |
|
試合数 |
勝敗 |
勝率 |
|
試合数 |
勝敗 |
勝率 |
総対戦 |
|
2104試合 |
1224勝880敗 |
.582 |
|
1596試合 |
1010勝586敗 |
.633 |
A級対戦 |
|
588試合 |
166勝422敗 |
.282 |
|
333試合 |
78勝255敗 |
.234 |
対男性 |
|
1488試合 |
883勝605敗 |
.593 |
|
941試合 |
570勝371敗 |
.606 |
対女性 |
|
618試合 |
342勝276敗 |
.554 |
|
655試合 |
440勝215敗 |
.672 |
内部練習 |
|
1372試合 |
800勝572敗 |
.583 |
|
1370試合 |
897勝473敗 |
.655 |
外部練習 |
|
574試合 |
380勝194敗 |
.662 |
|
167試合 |
81勝86敗 |
.485 |
試合対戦 |
|
158試合 |
44勝114敗 |
.278 |
|
59試合 |
32勝27敗 |
.542 |
昭和の記録は1979年4月から1989年1月の約10年間、平成の記録は1989年1月から2019年4月の約30年間。
平成の記録は、期間にして昭和の記録期間の3倍になるが、総対戦数では昭和の数に及ばない。
昭和と平成で互角と言えるのは、対内練習数と対女性練習の2分野くらいである。
勝率面でいえば、指標として確かなのは対A級戦であるが、これは平成になると五分ほど下がっている。
練習回数の減少と年齢的な体力等の衰えなども原因といえるだろう。試合対戦で、平成の勝率がアップしているのは、
個人戦はほとんどなく団体戦による記録となるからであり、団体戦は、D級やE級といった下のクラスでの戦績ということになるからである。
では、次に曜日別の傾向をみてみよう。
|
|
昭和 |
|
|
|
平成 |
|
|
曜日別 |
|
試合数 |
勝敗 |
勝率 |
|
試合数 |
勝敗 |
勝率 |
月曜日 |
|
164試合 |
92勝72敗 |
.561 |
|
176試合 |
123勝53敗 |
.699 |
火曜日 |
|
213試合 |
143勝70敗 |
.671 |
|
83試合 |
52勝31敗 |
.627 |
水曜日 |
|
391試合 |
236勝155敗 |
.604 |
|
176試合 |
109勝67敗 |
.619 |
木曜日 |
|
274試合 |
141勝133敗 |
.515 |
|
80試合 |
53勝27敗 |
.663 |
金曜日 |
|
504試合 |
308勝196敗 |
.611 |
|
58試合 |
34勝24敗 |
.586 |
土曜日 |
|
355試合 |
212勝143敗 |
.597 |
|
841試合 |
531勝310敗 |
.631 |
日曜日 |
|
203試合 |
92勝111敗 |
.453 |
|
182試合 |
108勝74敗 |
.593 |
平成で昭和を大きく上回っているのは土曜日、微増で対抗できているのが月曜日。他の曜日は軒並みダウン。
日曜日は試合数で追いつけなかったが勝数で追い抜き、勝率の面でも平成年間は健闘といえるだろうか。
平成は社会人としての生活リズムが確立した時代なので、仕事休みの土日が中心になるのは必然の結果である。
昭和での回数が少なかった月曜日で、平成が上回ったのは、SFC練習が月曜日を例会としていたことによる。
続いては、月別の傾向である。
|
|
昭和 |
|
|
|
平成 |
|
|
月別 |
|
試合数 |
勝敗 |
勝率 |
|
試合数 |
勝敗 |
勝率 |
1月 |
|
204試合 |
103勝101敗 |
.505 |
|
80試合 |
43勝37敗 |
.538 |
2月 |
|
159試合 |
94勝65敗 |
.591 |
|
103試合 |
64勝39敗 |
.621 |
3月 |
|
183試合 |
93勝90敗 |
.508 |
|
172試合 |
97勝75敗 |
.564 |
4月 |
|
126試合 |
81勝45敗 |
.643 |
|
138試合 |
90勝48敗 |
.652 |
5月 |
|
166試合 |
104勝62敗 |
.627 |
|
128試合 |
83勝45敗 |
.648 |
6月 |
|
165試合 |
109勝56敗 |
.661 |
|
119試合 |
87勝32敗 |
.731 |
7月 |
|
196試合 |
130勝66敗 |
.663 |
|
122試合 |
88勝34敗 |
.721 |
8月 |
|
310試合 |
154勝156敗 |
.497 |
|
337試合 |
206勝131敗 |
.611 |
9月 |
|
122試合 |
79勝43敗 |
.648 |
|
91試合 |
58勝33敗 |
.637 |
10月 |
|
204試合 |
112勝92敗 |
.549 |
|
120試合 |
69勝51敗 |
.575 |
11月 |
|
118試合 |
73勝45敗 |
.619 |
|
116試合 |
78勝38敗 |
.672 |
12月 |
|
161試合 |
92勝69敗 |
.571 |
|
60試合 |
47勝13敗 |
.783 |
4月と8月で平成が昭和を上回った。11月が拮抗で、3月も善戦といったところだろう。
8月は職業柄の夏休み期間ということもあるが、3月の健闘も含めて、職域学生大会に向けての調整のための練習確保の意味合いが大きい。
4月は新入生が入ってくるので指導のために数をこなせなかった昭和の事情があり、平成になると指導ではなく取りを優先させてもらったという要素がこの数字につながったのだろう。
11月は昭和の数が伸びていないことで、平成が少しずつ数字を積み上げたということになる。学生時代はともかく勤め始めてからも11月は三田祭などがあって、昭和期は特に仕事的に繁忙期だった。
そのせいもあって、1983年〜1988年は練習回数が確保できていない。自身の職業人生を振り返らせる数字となっている。
さて、多少趣向をかえて、都道府県別の傾向を確認しよう。
|
|
昭和 |
|
平成 |
都道府県別ベスト5 |
|
試合数 |
|
試合数 |
東京都 |
|
1262試合 |
|
408試合 |
神奈川県 |
|
445試合 |
|
1112試合 |
静岡県 |
|
140試合 |
|
50試合 |
長野県 |
|
77試合 |
|
8試合 |
山梨県 |
|
53試合 |
|
10試合 |
主戦場が昭和は東京都で、平成は神奈川県という結果である。平成期は、日吉とSFCでの練習が中心となった。30年の練習の蓄積が数字に表れている。
3位以下の比較では、平成での静岡県の数字が長野県や山梨県の数字と差がでているように感じる。長野・山梨は主に合宿地としての数値であるが、静岡県は合宿にとどまらず、
県下の高校での練習参加で積み上げた数字となっている点が大きい。
都道府県別というかるたを取った地域別のあとは、対戦会場というくくりで記録をみてみよう。
|
|
昭和 |
|
平成 |
会場別Best25 |
|
試合数 |
|
試合数 |
日吉和室 |
|
311試合 |
|
690試合 |
SFC体育館 |
|
--- |
|
233試合 |
恵比寿区民会館 |
|
203試合 |
|
3試合 |
千駄ヶ谷区民会館 |
|
204試合 |
|
--- |
三田婦人室 |
|
--- |
|
190試合 |
早稲田天祖神社 |
|
177試合 |
|
9試合 |
新丸子日枝神社 |
|
83試合 |
|
8試合 |
三田大聖院 |
|
77試合 |
|
--- |
神宮前区民会館 |
|
70試合 |
|
5試合 |
新橋区民会館 |
|
66試合 |
|
6試合 |
代々木八幡区民会館 |
|
71試合 |
|
--- |
日吉部室 |
|
42試合 |
|
21試合 |
静岡県立富士高校 |
|
55試合 |
|
8試合 |
江戸川区スポーツセンター |
|
15試合 |
|
46試合 |
早稲田第II学館 |
|
61試合 |
|
--- |
高井戸青年館 |
|
60試合 |
|
--- |
SFC中高 |
|
--- |
|
48試合 |
氷川区民会館 |
|
8試合 |
|
32試合 |
SFCクラブ棟和室 |
|
--- |
|
40試合 |
大向区民会館 |
|
37試合 |
|
--- |
静岡県立沼津東高校 |
|
26試合 |
|
8試合 |
甲斐常葉民宿なか |
|
32試合 |
|
--- |
都立西高校 |
|
30試合 |
|
1試合 |
黒姫高原ホテル若月 |
|
30試合 |
|
--- |
(旧)全日協本部 |
|
29試合 |
|
--- |
昭和か平成のどちらかが「ゼロ」というところが多いというのが傾向だろう。
特に平成以降に開設された湘南藤沢(SFC)関係の練習場は当然といえば当然「昭和年間:ゼロ」である。
そんな中でも日吉の和室や部室は、どちらもそれなりの数字を出している。
職域学生大会の会場としての代々木八幡区民会館や江戸川区スポーツセンターの数字も、団体戦の思い出を紡ぐ数値である。
次に、個人別の対戦数上位者を比較してみよう。
個人別ベスト20
見てのとおり、20位付近の数字で比較すれば、平成の方が数としてのハードルが低くなっている。また、平成の上位2名の数は突出している。
これは、練習環境によるところが大きい。どうしても平日の仕事後のキャンパス内練習は、対戦相手が固定化されてしまうからである。
そして、驚くべきは、昭和と平成ともに名を連ねている選手の存在である。同期の天野選手とは息の長い対戦を続けている。
なお、個人情報への配慮から一部伏字にしていることをご了解いただきたい。
最後に、職域学生大会の個人記録を比較してみよう。
|
|
昭和 |
|
|
|
|
|
平成 |
|
|
|
|
|
|
出場 |
試合数 |
勝敗 |
勝率 |
備考 |
|
出場 |
試合数 |
勝敗 |
勝率 |
備考 |
対戦数 |
|
16回 |
51試合 |
20勝31敗 |
.392 |
主将:4回,副将1回 A:8,B:7,C:1 |
|
13回 |
46試合 |
26勝20敗 |
.565 |
主将:4回,副将:9回 D:10,E:3 |
職域学生大会の出場は、昭和年間は「慶應義塾大学チーム」で、平成年間は「慶應義塾教職員チーム」である。
昭和年間は、学生時代と慶應義塾職員として学生チームと一緒に出場していた期間にわけられる。
主将を務めた4回はすべて学生時代で、副将は職員のときの1回である。主将を務めたうち3回が最下位でチームを下の級に落としてしまった。
きつい思い出でもある。その他12回は三将以下六将まである。六将以下の3回はフル出場こそないが全勝である。
一方、平成年間は、主将か副将しかない。私がこのポジションにいるということは、如何に出場選手のやりくりに苦労しているかということの証左であろう。
また、昭和では、A級でのチーム出場が8回、B級でのチーム出場が7回と、上位から8番目までのチームのクラスと9番目から16番目のチームのクラスでの出場が93.75%であった。
C級に出場した当時は、C級は一番下のクラスであった。
一方、平成は複雑で、当初E級は一番下のクラスだったが、その後クラスの再編があり、一番下のクラスとしてのD級出場が4回であり、13回の出場のうち一番下のクラスでの出場が53.85%となる。
D級出場10回のうち6回は、下から2番目のクラスとしての出場であり、上から数えると25番目から48番目までのチームのクラスでの出場であった。
このように対戦相手となるチームのクラスを考えると、昭和の勝率と平成の勝率の差の理由が見えてくるだろう。
なお、昭和では4試合フル出場が10回(62.5%)平成でも10回(76.9%)である。この29回中20回のフル出場で、全勝賞(4戦4勝)は、平成で1回のみである。
目標として、第100回の記念大会出場、職域学生大会への出場30回と100対戦というのを立てていたのだが、達成できたのは第100回記念大会出場のみで、残りの二つは、「令和」年間への持越しとなった。
この稿を結ぶにあたって、感想を述べたい。
私の結婚は平成2年3月なので、平成の記録については、平成元年が28試合なのでほぼ結婚後の記録ということになるし、湘南藤沢キャンパス(SFC)の勤務が始まったのがSFC開設の平成2年4月なので、
平成の記録、ほぼSFC開設以後の記録ということになる。平成年間のうち15年2か月(第1期が8年2か月、第2期が7年)という約半分はSFC勤務であった。
平成残りの半分は三田勤務ということになる。
記録をみると、明らかにライフスタイルの変化による特徴が顕著に表れる。それは、曜日単位の記録からであり、月単位の記録からである。さらに、練習場所の差も明らかである。
日吉の練習に加えSFCでの練習が増えたこともあり、平成は神奈川県での練習数増加が顕著である。東京都での練習は平成に入って減ったが、三田キャンパスの婦人室での練習は平成に入ってからである。
職場(勤務地)の変化や、仕事との関係、家庭をもったことでの練習環境の変化は、この昭和と平成の比較で見えてくる。競技の記録を通じて、自分のライフスタイルの変化が見えるということは、
自分の人生において、競技かるたというものが大きな関りをもっていることを示していることでもある。
令和に改まる今年は、私にとって還暦の年(己亥)でもある。私の慶應での職業人生も定年まで5年あまりとなる。令和以降の記録からもきっと私のライフスタイルが垣間見えることであろう。
人生を振り返るうえでのひとつの物差しとしての競技かるたの記録である。競技を続けられることへの感謝を含め、「競技かるた」というものを引き続き大事にしていきたいと思う。
自分史の中の「昭和」と「平成」、そして「競技かるた」。「令和」という新しい時代もまた、「競技かるた」とともに私の自分史を彩ってくれることだろう。
平成から令和になったと思ったら、(一社)全日本かるた協会競技かるた部からの通知があったので、ここに記録として留めておく。
令和元年五月一日付適用の競技規程の改定を含む通知である。Ms-Wordのファイル(.docx)を二つ貼り付けておくので、参照されたい。
競技かるた部からの通知 規程改定
<改定内容>
「競技規程細則」第二十三条(お手つき)第二項を以下の様に改めるとともに、補足を削除する。
有効手が一方の陣の札に触れたままその札が他方の陣に入り他方の陣の札と接触した場合でも、有効手が他方の陣の札に触れていなければ他方の陣はお手つきとしない。
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