前回のあらすじ:後輩の手違いから、十数年ぶりに競技カルタの試合に出るはめになってしまった私。
試合に出るために練習に行くが、そこで突き指をしてしまい、本番に向け不安がよぎる。
***
日曜日の朝、普段の出勤時間とほぼ同じ時間に家を出る。
試合会場に向かう電車の中では、不安にさいなまれる。
昨日は、妻が外出するので子供の相手をしながら、家にいたが、突き指の痛みは取れず、さらに
太股に筋肉痛を感じていた。腰の様子も、なんとなくおかしい。
こうした体調の不安が、競技かるたの試合に出場することへの不安につながるのだ。
体調の不安があると、それは精神的不安に転化する。
会場にいくと、そこには知らない選手が大勢いる。顔見知りが多かった大学時代とは大違いである。
知らない人間の中にいることも気持ちを落ち着かなくさせる。これも精神的な不安を増す要因となる。
そして、不安が一定量を超えると怖じ気を生じさせる。
「先輩、こっちです。」
大学の後輩が私を見つけて、声をかけてくれた。後輩達が会場の一角に固まって座っている。
そこへいくと、なんとなくほっとするから不思議なものだ。後輩というだけで、かるたで手合わせ
したことがない人間も多く、ほんの数回しかあったことがない奴だっているのにもかかわらずである。
「久しぶりだね〜。」
「ごぶさたしてます。」
「めずらしいねー。」
後輩達のところに座っていると、私が現役のころから、ずっと取りつづけているベテラン選手が
声をかけてくれる。
これも、また嬉しいものだ。
試合にのぞむ緊張感はあるものの、場違いに感じていた気持ちが薄れてきた。着替えを終えて、
開会式にのぞむころには、腰の違和感は無くなっていた。気持ちが落ち着いてきたことで、不安感
が緩和され、それが身体に影響を与えたのだろう。心と身体は相互作用するものだ。
あいかわらず、突き指の痛みは残っているが、ここまできたら気にしてはいられない。久しぶり
の練習による筋肉痛も気にしていたら試合にならない。試合への集中力を高めることで、なんとか
なるはずだ。
開会式のセレモニーは、いつ出ても長いとは思うが、リラクゼーションの呼吸法などを行いながら
参加していたら、それほど気にならなかった。
学生時代は、えらく長く感じたものだったのだが、さほど気にならずにすんだのは、呼吸法のおか
げなどではなく実は齢を重ねて忍耐力がついたためなのかもしれない。
開会式が終わると、第一試合である。トーナメント制であるから、私の出場するA級は登録60人なので、
不戦勝は、4名のみで28組56人が試合をすることになる。
学生時代は、それだけ入賞に近くなるので「不戦」を念じたものだが、今回は不戦を引きたくなかった。
不戦を引くと一試合分待たねばならない。その待つ時間が嫌だったからだ。それに出場するからには一勝
でも多く勝つことが目標であるべきだが、練習が不充分の状態で出ている今の自分には、入賞を狙うなど
はおこがましいことで到底いえるものではない。とにかく、目の前の一戦に集中するのみである。
後輩が対戦決めの様子を見にいって、知らせに来てくれた。
「五十六番の席です。相手は、山科さんという女子高生です。この前、B級で優勝してA級にあがったば
かりの選手です。」
わざわざ相手の情報までくれる。親切で言ってくれているのだろうが、今の自分には不要な情報だ。
A級にあがりたての女子高生など、勢いのかたまり、怖いもの知らずに違いない。こういう子は、音に
対するひびきが早く、私は以前から何度もタバ負けという痛い経験をしている。
畳の上に五十六番の番号札が五十五番の番号札にむかって置かれている。番号札の間には五十枚の取札
が輪ゴムで束ねられて置いてある。相手の選手より、先に着座して待っていると、小柄なショートカット
のボーイッシュな女の子が、前に座った。
「山科です。よろしくお願いします。」
挨拶の声とともに、こちらが挨拶を返す間もなく札を束ねた輪ゴムをはずし、札を散らして元気よく
混ぜ始めた。
「よろしくお願いします。」
挨拶を返しながら、札を混ぜる相手の手元を見つつ、混ざった札の中から、裏返しの札二十五枚を
選び出す。相手のペースにのってしまったようだが、それが心地よい。自然に競技の中に入っていった。
札を並べ終わり、十五分の暗記時間である。意識が札の暗記に集中していく。緊張を意識すること
がなく、相手のことをあれこれ詮索することもない。自分でも不思議な感覚だった。相手の様子を観察
し、どこが早そうだとか、落ち着きがないとか、何を考えているのだろうかとか、対戦相手のことを気
にしていた現役の頃とは、あきらかに違う時間の流れだった。
「二分前です。」
詠み手から、コールがあった。一斉に素振りが始まる。しかし、いかんせん,会場が狭いため、
隣の組との間に空間の余裕が少なく、窮屈である。相手は、一生懸命素振りを入れているが、
私は、何もしなかった。
ただ、敵陣の「さ」の一字札が、やけに気になっていた。理屈ではない。その札が
自己主張しているのだ。
二分はあっという間に過ぎていく。
試合開始である。序歌が詠まれる。
「難波津に咲くやこの花冬ごもり…今を春ベと咲くやこの花…今を春ベと咲くやこの花」
下の句を繰り返した二度めの「咲くやこの花」の時、「さ」の音のが、心に残り、相手陣の
「さ」の札が、語りかけたように感じた。「さ」の札のある敵右下段を攻めようと思った。
詠まれなくてもよい。とにかくそこに手を出そう。ただ、その思いだった。
「咲くやこの花…さみしさに宿を立ちいでてながむれば…」
自分でいうのも何だが、すばらしい勢いで「さ」の札を払った。自己満足と爽快感に包まれた。
自陣から「あき」で決まっていた「あきか」の札を送る。自陣には「あきの」が残った。
「さみしさに」の下の句は「いづこも同じ秋の夕暮れ」である。しかし、そんなに都合よく
「あき」の札がでるわけがないとは思ったが、季節つながりで「なつ」や「はるす」といった札
の確認をおこなった。そして冬の季節のからみで自陣の「やまざ」を確認した。敵陣には「やまが」
がある。
札の整頓がすべての組みで終わり、詠みがはじまる。
「いづこも同じ秋の夕暮れ」…「山里は冬ぞ寂しさまさりける」
確認したばかりの「やまざ」が詠まれた。敵陣の「やまが」をまったく攻めもせず、自陣の
「やまざ」を一直線に守った。相手もこちらを攻めてきたが、出札への近さの利は大きかった。
余裕の守りであった。
おそらく、相手は、この最初の二枚の私の取りで、私の力を過大評価したのではないだろうか。
続く「あきか」の札で私の陣の「あきの」を二字決まりのような速さでお手つきをする。自陣の
「あきか」への戻りも一連の流れで素早かったため、私の取りにはならなかったが、労せずして私は
自陣の札を一枚減らす。
このお手つきで歯車が狂ったのだろう。続く空札でニ連続のお手つき。二十枚対二十七枚と早くも
大きなリードを奪うことができた。相手はこのお手つきの連続で慎重になってしまったようだ。相手
の手が止まったのだ。
事件はここで起こった。
相手が泣きだしてしまったのだ。
ことの次第はこうである。
続いて詠まれた敵陣の「せ」の札を私がゆっくりと押さえた。ゆっくりといっても相当に遅い。
「瀬をはやみ岩にせかるる瀧川の」の二度目の「せ」、すなわち九文字目くらいであった。
一字決まりの札をこんなに遅く取ることはきわめて珍しいことである。相手の手が止まっていたこ
とと、私がほぼ失念していたという偶然のなせる技なのだが、相手の感情は混乱を来してしまった
ようだ。敵陣を遅く取って、失念の気まずさから、照れかくしの苦笑を浮かべながら、自陣から札
を送った。
どこに札を置くのかと札を見ていると、札の上に水滴が、一粒、二粒と、ぽつりぽつり落ちてく
る。あわてて相手を見上げると、受け取った札を並べずに涙をぬぐっているではないか。もちろん、
自分への怒りと情けなさなどのないまぜにになった涙であろう。しかし、ここで、私は勝負師とし
て一番してはならないことをしてしまった。
「泣かせてしまった」というような罪の意識を持ってしまったのだ。
勝負の舞台で泣くのは禁物、まして相手が勝手に泣くのに心を動揺させていては論外で
あるのだが…。
私の集中力がここで切れてしまった。お手つきはしなかったものの、突き指の痛みや腰痛が
気になりだし、送り札の暗記の混乱があり、取りが遅くなっていった。
その間、相手も涙をふっきって、札にむかってくる。八枚差のリードが少しずつ縮まっていく。
こちらが残り三枚になった時に、追いつかれてしまった。
追いつかれて、私は気持ち的に開き直った。すべて自陣が出ると勝手に決断した。
右下段に三枚並べて、ひたすら守った。
無謀な賭けは成功した。自陣二枚が先に詠まれ、相手の攻めに対して、一音で自陣を囲い、
守りきった。
三枚対一枚、ここでも守った。しかし、相手札が詠まれ、二枚対一枚。この自陣の一枚が
相手の二枚のうち一枚よりも先に詠まれる。それは、信念というか強引な自分への思い込み
だった。一枚・一枚になっても、自陣が先という信念で、敵陣の札は眼中になく、自陣の札に
手を近づけ、視線をあわせ、詠まれるのを待った。
「…つつー。…。かぜそよぐ…」
「か」ぎまりになっていた「かぜそ」の札を自陣で守る。
『勝った。』
ほっとしたと同時に、どっと疲れが出た。汗が吹き出た。
「ありがとうございました。」
相手、詠み手へ礼をし、札の枚数を確認する。相手は、よほど悔しかったのだろう。
また、涙をぬぐっていた。この悔しさが強くなるためのバネになる。
そんな思いが、脳裏をよぎった。
すぐにニ回戦が始まる。正直しんどい。しかも一回戦を勝ち抜いてきた相手とあたるのだ。
不安というか嫌な予感を感じていた。
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