隔月連載小説(3)

Hitoshi Takano Sep/2006

いふ(後編)


前回までのあらすじ:後輩の手違いから、十数年ぶりに競技カルタの試合に出るはめになってしまった 私。試合に出たら、なんと一回戦を勝ってしまった。練習での突指や腰痛が気になり、二回戦に向けて 不安が一杯。

***

 僅差で勝った選手には休む間もなく、次の試合の組み合わせが決まる。息があがったまま、二回戦 の組み合わせ状況を見にいった。

 本部席には、対戦カードが並んでいる。まだ、すべての組み合わせは決まっていないようだが、今度 はニ番のところに私のカードがあった。対戦相手は一番の相手だ。さきほどの対戦相手と同じ高校の男 子生徒のようだ。また、元気のよい若手との対戦である。自分自身の乱れた呼吸に、「若さは武器だ」 とつくづく感じた。
 組み合わせを最後までみている余裕は無い。早速、二番の札の置いてある場所にいって、札の束を前 に呼吸を整えていた。
 自分の周囲にも、選手が並び始めた。しかし、私の前には対戦相手がなかなか現れない。ほとんどの 選手が並び終わったころに、大会の役員が現れた。

 「対戦相手の沢田さんが棄権されましたので、不戦勝です。」

 「えっ、私の相手は加藤さんじゃないんですか?」

 「ああ、最後まで組み合わせをご覧になってなかったのですね。三十一番と三十二番の方が同じ会の 方であたったので、三十二番の方と一番の方が入れ替わったんです。」

 同じかるた会所属の選手の対戦は、たとえば八人中五人が残るような場合以外は、組み合わせは 最大限避けるようにするという決めがあるのだ。その影響で私の対戦相手が最初に見たときと最後の 決定時と変わったようだった。

 使うはずの取札の束を持って本部に、不戦勝の報告にいった。

 「おめでとうございます。次がんばってください。」

 本部の係員から声をかけられる。対戦カードにはすでに丸印がつけてあった。

 「相手の方はどうされたのですか。」

 棄権の理由が、気になるので聞いてみる。

 「前の試合の終盤に突き指をされて、ちょっと次の試合を取ることができないということですよ。」

 係員の答えに、思わず相手の対戦カードに目をやった。なんと相手の一回戦の相手は、練習で私の 突き指の原因になったうちの後輩ではないか。
 何か嫌な偶然だとの思いで、控室にむかった。

 「先輩、こっちです。」

 控え室には、突き指の原因となったくだんの後輩がいる。

 「相手に怪我させたのか?」

 「二枚対十枚の時に縦の別れ札でクラッシュしたんです。そこで、相手が突き指してしまった ようです。相当に痛かったようですが、その次にすぐ敵陣の一枚が出てあっさり守られて負けて しまいました。」

 「その相手の方は、ここにいるの?」

 「ええっと、あそこの角にすわっている方です。」

 そこには、ベテランの女性選手がいた。A級優勝の経験もある選手だ。私もその昔数回対戦 したことがある。そのころは柳沢姓であった。沢田という名前には記憶がなかったが、顔を見 て思いだした。改姓したわけだ。これもまた、年月の流れであろう。

 「ごぶさたしています。指は、大丈夫ですか。」

 私は、懐かしさも手伝って挨拶にいった。

 「あら、ずいぶんと久しぶりじゃないの。現役復帰?」

 「自分の中では、ずっと現役でしたよ。それより、指はいかがですか。私も彼との対戦で 突き指したんですよ。ご迷惑おかけしました。」

 「ひょっとして私の棄権で不戦勝したのは、あなただったの?」

 「ええ、まあ。」

 「後輩くんのナイスアシストね。」

 「すみません。」

 「冗談よ。ちょっと腫れと痛みが引かないの。靭帯痛めたみたい。まあ、何度も痛めてるしね。 一種の職業病だから、慣れてるわ。テーピングして、痛みをこらえて取って取れないことはないけど、 そんな状態で取るんじゃ相手に失礼だしね。それで勝っても、自分でも不本意だと思うから棄権した のよ。」
 
 「柳沢さんは、昔、左手で取って入賞したことありませんでしたっけ。」

 「やぁねぇ〜。随分、古いこと覚えているのねぇ。旧姓で呼ばれたのも久しぶり。」

 「あっ、すみません。沢田さんでしたね。」

 「あの時はねぇ〜、指を骨折していてね。骨折してからしばらくの間、左手で取る練習を していたから…。急に右を痛めたからといって、左手で取るのは無理よ。練習してなきゃね。」

 「右手の時も、左手の時も、どちらでも負けているんです。ひびき負けで完敗でした。」

 『今、対戦しても勝てる気がしません。』という言葉が出かかったが、言葉を飲みこんだ。 たしかに左手で取られても、今の私では勝てない相手には違いないだろう。しかし、突き指して、 充分に取れないから棄権するというのは、選手としての一つの考え方だ。余計なことを言うことで、 相手に失礼と感じられたくなかったし、自分自身を落としめる台詞に違いなかったからだ。

 「油売ってないで、三回戦に備えたら。入賞戦でしょ。がんばりなさい。」

 「はい、ありがとうございます。がんばります。」

 二回戦の間、一休みできるのは一回戦だけで疲れてしまったガタのきている身体には助かる。 そして三回戦に勝てばベストエイトで入賞である。

 棄権した沢田選手の「相手に失礼だし、自分自身が不本意だから棄権した。」という言葉には、 恐れ入った。この言葉を今の自分にあてはめれば試合に出るべきではなかったのかもしれないと思った。
 しかし、賽は投げられたのだ。ここで三回戦を棄権することのほうがありえない選択だ。精一杯、 今の自分の力を発揮するしかないのだ。

 いままさに、二回戦の最中である。三回戦の始まるまでは、まだまだ一時間以上の時間がある。 そして、昼食どきでもある。一回戦で負けた選手で、食事に出た選手もいる。しかし、普通に 昼食をとると、胃に血液がまわり、脳への血液供給が減ってしまう。要は、眠くなってしまうのだ。 とりあえず、チョコレートのひとかけを口に入れ、水分を補給する。三回戦に向け、呼吸を整え、 一人で時間を過ごす。二回戦の終わり近くになったら、後輩に呼んでもらうことにした。
 しかし、休息の間に、試合の間は忘れていた、突き指の痛みと腰の痛みを感じ始めた。とくに、 突き指の痛みが増したように感じたのは、前の試合での相手との手の接触のせいだろうか。ただ、 気にしていても、もう後戻りはできない。

 「先輩、そろそろ二回戦が終わりそうです。」

 後輩の声かけに、控え室を出て試合会場に戻った。残り試合は一枚対一枚の運命戦の状態である。

 四組ほどが運命戦になっていた。試合会場の端から、手前の一組を見ていた。手前の選手は着ている Tシャツから高校生とわかる。相手は年配の選手だ。
 持ち札は、高校生が「ちぎりお」で、相手が「ちぎりき」である。珍しい四字決まりの別れ札 での一・一である。お互いに自陣を囲い合って終わるだろうと思って見ていた。
 下の句が詠まれ、上の句が詠まれたその瞬間、私の常識ではありえないことが起こった。一音め が詠まれるやいなや、凄まじい勢いで高校生が相手陣の「ちぎりき」を払ったのだ。「ち」の音を 聞いて出るというより、一音めの詠まれるタイミングをはかって飛びだした感じだった。相手は自 陣を囲ういとまも無かった。
 感動したのは相手の選手が、相手に自陣を払われたと理解した瞬間に相手陣の「ちぎりお」を囲い に行ったことだ。随分冷静なものだと思った。一音めから決まり字が詠まれるまでの時間が長く感 じられた。意識の中では、スローモーションである。 

 「ち」…「ぎ」…「り」…。

 決まり字は「き」だった。高校生は勝負の賭けに出たのだろう。あたったからよい。相手もよも や攻めてこないとの前提があったから、囲いがほんのわずか遅れたのであろう。これがスキだとい えば言えないことはないし、この一瞬のスキが敗因だといえないことはないだろう。
 しかし、この高校生の賭けは、自分が指導者ならば充分に注意に値する行為だった。「ちは」が 出ているという前提であれば、自ら勝利の確率を二分の一に限定するものだからである。決まり字を 待って取れば、相手がどんなミスをするかもわからないのだから、勝利の確率は、札が残っていると おりの二分の一限定の確率ではないからだ。

 「『ちは』は出ているんですよね?」

 近くの観客に聞いてみた。どうやら「ちは」はすでに出ているようだ。
 そうすると冷静に見えた対戦相手の敵陣の札を囲うという行為も、実は、あまり意味のないもの であるということがわかる。自陣を払われた時点で、「ちぎりき」が詠まれれば負け、「ちぎりお」 であれば、その札を取らなくとも、相手のお手つきで勝ちだからである。じっと、決まり字を待てば よいだけである。
 そうはいっても、きっと選手としての習性なのであろう。考えずに自然に身体が動いたのだろう。 日頃からよく練習しているに違いない。そうでなければ、とっさにこういう動きはできないものだ。
 今の自分には、この高校生の賭けも、この年配の選手の相手陣の囲いもできないだろう。そう感じた。

 いよいよ三回戦である。これに勝て入賞である。当然のごとく、勝ち残った強い選手が相手だ。
 本部の対戦組み合わせを見に行く。対戦カードを係員がシャッフルする。

 「どなたか手を入れる人はいませんか?」

 私の隣で見ていた選手が、手を出してカードの束を三つにわけて、重ねなおした。対戦カードが 開かれ、並べられる。私のカードは、三番めだった。対戦相手は次の四番である。四番のカードが 開かれる。

 「っ!」

 私は驚いた。四番のカードは、四年連続でクイーン位を保持している現在のクイーンではないか。 過去に試合で元名人とか元クイーンというタイトル経験者とは当たったことがあるが、現役のタイ トル保持者とは初めての対戦である。

 背筋がゾクッとした。これは武者ぶるいだったのか、畏れを感じたのか、それとも怖じ気だったの かもしれない
 
 斯界の最高峰の選手と試合で対戦する。それは、競技かるたの選手にとって大きな意味を持つ。タイ トルを狙う選手なら、のちの戦いの為に前哨戦としての意味を持つし、そうでないとしても一流選手か ら学ぶ貴重な機会であるからだ。

 そんな大切な機会が、後輩の登録ミスからたまたま試合に出てきて、相手の二回戦棄権で、偶然勝ち 残っているような、ろくに練習もしていない上に、身体にガタがきているような自分のような選手に 与えられるとは、いったいどういうことだろう。とにかく恥ずかしい試合はできない。そう思った。
 
 礼をし、札をわけ、札を並べ、札を覚える十五分の暗記時間は、あっという間に過ぎていった。
 なぜだろうか。
 それは、相手のタイトル保持者としてのオーラが、すでにこちらにプレッシャーをかけているからで ある。私は、試合前からすでに相手の目に見えない攻撃の中で平常心を失っていた。

 試合が始まる。札が詠まれる。自分の身体が自分の身体でないようだった。出札があることはわ かっても手が出ない。相手は、決まり字で出札にまっすぐ手を出してくる。やっと一字決まりで自陣 の右下段に手が出ても、こちらが札押しでは、出札に直接いかれて間に合わない。
 十枚連取され、ふと「このままではいけない」と気合をいれなおず。自分の両ほほを自分で二度三度 と叩く。

 大山札のうち自陣単独の「あさぼらけ」が詠まれる。自陣にあるのは「あさぼらけあ」。右下段の 一番外側できっちり囲った。

 「よし、『あさぼらけあ』なら取れる」

 囲った瞬間そう思った。しかし、クイーンは六字めで、指一本で囲いの隙間に突きこんできた。 取られてしまった。

 攻めれず、守れず、どうしようもない惨めさが漂う。試合中にそれでは、それこそどうしようも 無いのだ。余計なことを感じ始めると、突き指の痛みや腰痛が気になり始める。とにかく次の一枚 に集中して取らないことには、本当に無様に完封負けを喫してしまう。
 A級の試合で、完封負けなど恥ずかしい限りである。なんとかしなければならない。
 すでに二十五枚対九枚になっていた。一枚も取れないうちに相手は一桁。札を減らす希望である相 手のお手つきもない。なんとかしたい。その時、私は自分自身でも思いがけない行動に出ていた。
 「わたのはら」が詠まれる。自陣には「わたのはらや」、敵陣には「わたのはらこ」がある。相手 が、こちらの「わたのはらや」に手を伸ばしにきたのが見えた。そのとき、私は、決まり字前に相手陣 の「わたのはらこ」を払っていた。
 二回戦最後の運命戦が、記憶に残っていたのだろうか。このとき、ミスで払ってしまったとか、 無意識に払ったのかというとそうではない。はっきり決まり字前ということを意識しつつ、 「これはまずい」と思いながらも、まずは一枚取るにはこれしかないと払ってしまったのだ。
 野球で、パーフェクトピッチングの前に押さえこまれているチームが、セーフティーバントを試み て内野守備の緊張からくる乱れをさそうようなものだ。
 結果は、「あたり」だった。私は自陣から友札になっていた「ながか」を送った。やっと一枚減らす ことができた。しかし、このときの私をにらんだクイ−ンの目の恐ろしさは忘れられない。非常に厳し い目で私をにらんだ。
 そうだ。やはり私がやったこととは、パーフェクト逃れと言い訳したとしても、掟破りの一手なのだ。
 しかし、この一枚が、結果として私の枚数を減らすことに役立ったことは間違いない。
 送った「ながか」はすぐに詠まれ、私は攻め取ることができたし、相手がなんとこちらの陣に残した 「ながら」を触ってくれたのだ。二十二枚対十枚。反撃開始である。しかし、このあとも払いのスピード とひびきの速さはいかんともしがたく結局、十九枚差で負けたのであった。

 後輩の間違えから出場した私の大会はこれで幕を閉じた。

 しかし、私の心には悔いが残った。

 その後、時間が立てば立つほど、掟破りの「わたのはらこ」の決まり字前の払いについて後悔の念が 増すのである。
 あの時のクイーンの目は、今でも畏怖の念を起こさせる。

 もしも、登録の間違えがなければ、もしも、対戦相手の棄権がなければ、こんなことにはならな かったのだろう。

 以来、あの時の掟破りの一手の是否を問うために、あの時のクイーンの目の意味を知るために 再度タイトル保持者と対戦することを望んで、練習を続けている。

……… 完 ………

(C)2006 Hitoshi Takano

☆ いふ「目次」へ

★ いふ(前編)へ

☆ いふ(中編)へ


次のTopicへ        前のTopicへ

トピックへ
ページターミナルへ
慶應かるた会のトップページへ
HITOSHI TAKANOのTOP PAGEへ

E-Mail宛先