愛国百人一首

藤原為氏

勅として祈るしるしの神風に
   寄せくる浪はかつ碎けつつ


<愛国百人一首における決まり字>
チョ(2字決まり)
<愛国百人一首における同音の数>
チ音4枚中の1
<歌意・鑑賞>
 弘安4(1281)年、勅使として伊勢神宮に参向した時の歌である。「神風」は「伊勢」に かかる枕詞であるが、ここでは「神風」を使うことで、伊勢に赴いたことをあらわし、弘安の役 で、台風により蒙古軍が壊滅状態になった意の大風の意味の「神風」も含まれる。
 天皇の仰せで祈りまつったしるしとして吹き出した神の風に、西の海の岸に寄せ来る波は、はし からはしからくだけていくのです。
<コメント>
 の孫で、定家の子の為家を父に持つ。為家には三人の子がいた。二条家の祖と なった為氏、京極家の祖となった為教、冷泉家の祖となった為相である。
 御子左家以来の歌の家を継いだ父為家から、歌の家が三家に別れたことになる。為氏は続拾遺集の 撰者である。歌風は保守的と言われる。
 弟とは、家領の播磨細川荘を争った。為氏が細川荘を押領したと、為相の母である阿仏尼は、訴訟の ために鎌倉に赴いたのだった。このときの紀行が、十六夜日記である。この訴訟において、為氏は異母 弟親子に敗れた、以後兄弟仲は不仲になったという。

 この歌で、75首めのリンクにあたる。4分の3のリンクが終わった。
 定家の孫の項なので、少し、小倉百人一首と愛国百人一首について相違を感じる点を記しておこうと思う。

 解説やエピソードを書いて、リンクをはる作業を続けてきたのだが、愛国百人一首は小倉百人一首と は、伝わってくるものが違う。何かもの足りなさを感じるのだ。「テーマが違うからあたりまえだろう」 と思われる方もいるだろう。また、小倉百人一首との接触の長さと深さと比較して、愛国百人一首では 競技かるたもしていないし、その差が出ているのだろうという声もあるだろう。
 しかし、おそらくそんなことなのではないのだ。
 歌一首ずつからは、詠者の思いが伝わってくる。それは、小倉百人一首も愛国百人一首もかわらない。 むしろ愛国百人一首で国事に身を捧げて亡くなった歌人の辞世に近いところでの歌のほうが、心に ひびくこともある。一首ずつの問題ではないので、百首全体の問題なのだ。それは、愛国百人一首は 十数名の委員会の撰であるということであるし、小倉百人一首は定家一人の撰であるという点に違い があるように思えてならない。
 愛国百人一首は、撰歌基準を委員会で決めて多くの委員の思惑が絡み合って選定されたものであり、 そこに一人の個人の強い思いが全体に反映されているわけではないのである。しかし、小倉百人一首 には「用捨在心」と言い切ったほどの定家の強い思いが、構成全体に反映されているのである。小倉 百人一首は、百首の構成自体が、言霊の精華である和歌により、まさに呪術的な仕掛けとなっている に違いないと感じさせるのである。これが大きな違いなのである。
 小倉百人一首には、親子関係など血筋の絡み合いが見て取れるし、対立と協調などの構図があり、 愛国百人一首にも、親子関係や師弟関係、憂国の同志といった関係がちりばめられている。それは それで、面白いのであるが、百首全体に仕掛けられた壮大な定家の構想の力の前には色あせるよう に感じるのである。
 我々が小倉百人一首を使い、競技かるたでプレーするのも、実は定家が仕掛けた百首の結界の中で 踊らされているに過ぎないのではないかと考えてしまうのである。

 愛国百人一首という定家撰以外の百人一首にふれることで、ますます定家の偉大さを感じることに なったのである。
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2008年6月1日  HITOSHI TAKANO