左京大夫顕輔
秋風にたなびく雲の絶え間より
もれいづる月のかげのさやけさ
決まり字:アキカ(三字決まリ)
解説不要の平易な歌である。誰しも秋の夜に月を見て同じような思いをいだいたことはないだろうか。
それとも、この歌を知って、秋の月を見上げて、この歌を思い出すという経験をしたことのある方
もいるのではないだろうか。
自分も、こんな歌が詠めたらいいなと思わせてくれる歌である。
さて、作者は、六条藤家といわれる歌学の家の当主である。自らの意のままにならぬものは「賽の目、
鴨川の水、山法師」の三つと言い放った白河院の近臣に藤原顕季という人物がおり、これが歌学の家柄
としての六条藤原家の祖となる。顕輔はこの六条顕季の子である。
天皇家に三種の神器があるように、藤原氏の氏の長者には「朱器・台盤」という継承されるべき
象徴的な家宝があるが、六条顕季は、歌学の家を継ぐ者に歌学書や柿本人麻呂
の肖像(影)を継承するということをやって、歌学の家というものを世襲的に伝え始めたのである。
柿本人麻呂はこの当時すでに歌聖であった。そして、この時代、人麻呂の影(肖像)の前で歌人を
招いて歌を詠むという人麻呂影供という人麻呂を祭る歌会が行われるようになっていたのである。
そこで使われた人麻呂の肖像(影)が、歌学の家の当主の象徴として世襲されていくようになった
のである。これを受け取ったのが、顕季の三男の顕輔であった。そして、顕輔から歌学の家を家宝とともに
世襲するのが「ながらえば」の清輔であった。
顕輔は、譲位後に和歌に没頭した崇徳院に和歌の指導を行い、詞花集の撰進
にもあたっている。当時の歌壇の一任者であったのである。
定家の撰歌意識の中には、この歌の
「月」というテーマや、定家のしばらく前の世代の歌壇の大物という他にも、保元の乱で流された崇徳院
の歌の指導を行っていたという点も加味されていたのであろう。
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2008年4月28日 HITOSHI TAKANO