後徳大寺左大臣

ほととぎす鳴きつるかたをながむれば
   ただ有明の月ぞのこれる


決まり字:(一字決まリ)
 「ほととぎす」を漢字で書くと、不如帰、時鳥、子規、郭公、杜鵑、蜀魂、杜宇、田鵑 など、当てる字の種類は実に多い。
 歌の意は非常に明快で、説明を要しないかと思う。
 「ほととぎす」という出だしは、小学校1・2年で初めて百人一首の歌にふれる子ども にも、たいへん覚えやすい。「きりぎりす」は昆虫、「ほととぎす」は鳥と、イメージし やすいのである。それにくらべ「ちはやぶる」やら「いにしへの」と いわれてもなんのことやら、小学校低学年の子どもにはわかりずらい。 まだ、「秋」とか「春」とか季節が歌の頭に出てくるほうが、なじみがもてるという ものである。

 競技かるたの決まり字は、一字決まり。百枚の中で「ほ」で始まる歌はこの一首のみ なので、「ほ」と聞いただけで取ることができる。ただし、時々、この「HO」のH音が 聞こえないときがある。そのときは「ototogisu」と聞こえる。こんなときに「音に きく」の札などあろうものなら「oto」に反応し、「おと」の札に手が出てしまうこと がある。この手のお手つきには気をつけたいものである。

 さて、作者は藤原実定である。祖父が、徳大寺左大臣といわれたので、後徳大寺左大臣といわれた。 ちなみに父親の公能(きんよし)は右大臣である。母方の関係で百人一首選者の定家とは 従兄弟の関係にあたる。
 権大納言に昇任したあとに辞任、辞任後に位階こそ正二位に叙されるが、官に戻るのは 12年後に大納言としてである。一説には、自分の位を越階した実長を越えるための辞任 といわれるが、見込みは甘かったようだ。時は、平家の全盛時となり、目論見ははずれる ことになった。
 歌をはじめ、漢詩もたくみで、文章にもすぐれ、文化人として名を残しているようだが、 「無明の酒」を「無名の酒」(名無しの酒)と間違えたことが後世に残り、それほどでも なかったという評価もある。
 12年の散位(位はあるが官がないこと)生活といい、この間違えといい、間の悪さを 感じさせるが、こうした間違えが後世に伝えられるということは、逆に優れている部分が あったからこそのことであろう。「弘法も筆のあやまり」の類と考えれば、やはり、優れた 文化人だったのであろう。

ほととぎす鳴きつる方にあきれたる後徳大寺の有明の顔

 江戸時代の狂歌である。この元の歌ともあいまって、イメージが湧く狂歌である。
作者は、太田蜀山人。太田南畝ともいう。狂歌師として四方赤良(よものあから) とも名乗る。
 蜀山人は、江戸後期の文人であり、世の中を皮肉り、笑い飛ばしているが、出自は幕府 の侍である。狂歌の中には、百人一首等の古典をもじったものも多い。こうしたパロディ化 も、教養がなければできないことである。
 そういう意味では、本歌取りを技巧として行った定家との共通点もあるのではないだろう か。ただ、方向性が違ったのだ。
 蜀山人は、生きていた時代がまた違う時代であったならば、一流の歌人にもなりえた才能 を持っていたのであろう。

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2008年4月8日  HITOSHI TAKANO