TOPIC "番外編"
追悼, 正木一郎永世名人
〜訃報に接して〜
Hitoshi Takano MAY/2018
2018年4月6日に訃報が報じられた。
3月22日に競技かるた界で最初の永世名人となった正木一郎氏が肺炎でなくなられたということだった。享年85。
朝日新聞デジタルの記事には「55年に全日本かるた協会の第1期名人戦で初代名人位を獲得。10期連続で名人位を保持した。」
と記載されている。
私自身の思い出としては、1979年に競技かるたを始めてしばらくして先輩から正木永世名人の存在を聞き、レジェンドとして認識した方であった。
はじめてご本人にお目にかかってご挨拶させていただいたのは、1981年、東京ゆらのと会の練習会でであった。
そのときは、私がゆらのと会の方と練習している横で、ゆらのと会の若手と取っていらっしゃったのを覚えている。
自分が取っているわけでもないのに隣の組で取られているというだけで緊張していた。
自分の対戦は覚えていないが、隣の対戦は18枚差で決着がついていたことを覚えている。
取ってもらえる隣の選手がうらやましかったが、こちらは他会からの押しかけゲストにすぎないし、
自分の実力が取っていただけるほど全然ついていないことを理解していたので、名人経験者と取ってもらう夢はまだまだ先のことと考えていた。
自分がA級になって、正木名人の勇退(11期は出場辞退)のあと第11期名人位についた松川英夫名人と試合であたったときは、緊張したが非常に嬉しかった。
時の名人と取らせてもらえること、名人経験者と取らせてもらえることは、競技かるたの選手にとって憧れでもあり、目標でもある。
そのことを肌で感じたのが、この正木名人の隣の組で取ったときであろう。
さて、正木名人の名人戦の記録は、かるた展望などの各種資料からおこす次のようになる。現在は名人戦は5番勝負で1日で行うが、
7番勝負で行われた際は二日制で初日3試合で、二日目が最大4試合だったようだ。
第1期(1955年)昭和30年
◎正木一郎(東京白妙会) ○●○○○ 鈴木俊夫(福岡白妙会)
1・2回戦、1枚差勝負
第2期(1956年)昭和31年
◎正木一郎(東京白妙会) ○○○ 早川喜市(横浜隼会)
3回戦、5−3から逆転
第3期(1957年)昭和32年
◎正木一郎(東京白妙会) ○○○○ 鈴木俊夫(福岡白妙会)
1回戦から順に10枚差、12枚差、8枚差、二日目の4回戦は1枚差
第4期(1958年)昭和33年
◎正木一郎(東京白妙会) ○○○○ 鈴木俊夫(福岡白妙会)
正木名人、4試合でお手付1回のみ
第5期(1959年)昭和34年
◎正木一郎(東京白妙会) ●○○○●○ 鈴木俊夫(福岡白妙会)
1回戦21−9から7枚で追いつくも1枚差、5回戦も1枚差勝負
第6期(1960年)昭和35年
◎正木一郎(東京白妙会) ○○○●○ 田口忠夫(東京白妙会)
田口挑戦者、4回戦6枚差で一矢報いる
第7期(1961年)昭和36年
◎正木一郎(東京白妙会) ○○○●○ 田口忠夫(東京白妙会)
4回戦は1枚差
第8期(1962年)昭和37年
◎正木一郎(東京白妙会) ○○○ 田口忠夫(東京白妙会)
正木名人、遅くなった自分を痛感、相手の感じを利用し力の配分で差が生じたと語る
第9期(1963年)昭和38年
◎正木一郎(東京白妙会) ○○○○ 山下 義(大阪暁会)
第10期(1964年)昭和39年
◎正木一郎(東京白妙会) ●○○●○●○ 奥田 宏(東京白妙会)
正木名人の言葉というのは、人づてに聞いているものが印象に残っている。直に聞けなかったのは残念であるが、
人づてに伝わるというのは、その伝えた人にも印象に残って、仲間や後輩に伝えるべき言葉として伝えるから語り継がれるのであろう。
その一つが、「足の裏でも音を感じろ!」である。「私の好きな言葉」という記事で
別途紹介させていただいた。
もう一つが、「かるたを科学的に考えるのは私が始めた」である。人づてなので正確な表現かどうかはわからないが、
競技かるたの戦略・作戦を科学的な考え方でもって考えていったということであると思う。
推測にすぎないが、おそらくはそれまでは、いわゆる「勢い」の重視とか「カン」や「閃き」といった表現が指導などの現場で
使われていたのではないだろうか?
こうした表現に代表される曖昧さに根拠を求め、論理的な正しさや科学的な分析で説明のできる、道理に合うものを体系的に戦略化し、
言語化したということであろう。
この精神は、わたしが書く「私的かるた論」の中でも、私自身が心がけている精神である。
私自身が正木名人から直に聞いた言葉というのは、職域学生大会における閉会式の講評である。
今でも、覚えている三つの言葉を紹介したい。
一つ目は、「練習で一試合取り終わったあとに感想戦をしなさい。」である。この時は、強くなるために必要なこととして、
将棋の感想戦を例にあげて、一試合を振り返り、どこが良かった悪かったを分析し、次に活かすということを話されていた。相手とできないときは
家に帰って一人でも思い出してできるということを、将棋の棋士が棋譜を覚えていて再現できることを例示して話されていた。
将棋から学ばれることも多かったのだとは思うが、かるたの名人である以上、将棋の名人と同じことができるということで、矜持を保ち、
ステータスを近づけるという思いもあったのではないかと思う。
二つ目は、「団体戦においては、主将の役割が大切。」という言葉だ。これは、実際の職域学生大会の決勝戦を例に話されていたことである。
もちろん、団体戦なので一人一人の選手も大事だし、チームワークも大事なのだが、主将のがんばり、主将が勝つことがどれだけチームに影響を与え、
チームの力になるかということを話されていた。主将を務める選手にとっては大きなプレッシャーになる話であるが、そのプレッシャーを超えたところに
主将の価値があるのだと思う。こういう話を聞いているので、ここ数年、職域のチームとして主将を務めざるをえなかった私は正直荷が重かった。
しかし、団体戦で強いチームには柱となる主将がいることは事実であろう。チームとして、こういう主将を育てなければならないのだろう。
三つ目は、「合宿などで夏に鍛えるのは、冬のシーズンのためである」ということである。ご自身の体験として、冬の名人戦で何試合も取る体力は、
夏の間に合宿で一日に何試合も取って鍛えるということを話されていた。これは一例であろうが、やはり目先のことではなく、先のことを考えて、
ある程度の長いスパンで物事は準備しなければならないということを言いたかったものと考えている。
これ以外のにもいろいろお聞きしたはずだが、書き留めていないため、覚えているものしか紹介できなかった。
今後、他の方からでも正木名人語録をうかがって、記録と心にとどめたいと思う。
正木名人はご逝去されたが、正木名人のかるたに対する愛情と情熱は、多くの選手の中で息づき継承されていくことだろう。
正木名人、長い間ありがとうございました。
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