"競技かるた"に関する私的「かるた」論

番外編

私の好きな言葉

〜五人のかるた関係者の発言〜

Hitoshi Takano Dec/2015


 以前、この私的かるた論において、"私のかるたに影響を与えた言葉" というのを書いたが、影響はともかく印象に残っているかるた関係者の言葉というのがある。
 今回は、この中から五つの言葉を紹介したい。

=====================================

「私の好きな言葉−Five」

  (1) 足の裏でも音を感じろ!

  (2) 敵陣は遠いからこそ取りにいくんだ!

  (3) 25枚あてれば名人にでも勝てる!

  (4) 私は上段でA級にあがったようなものですから、、、

  (5) 王道かるたは右でなければならない

=====================================
IN ENGLISH


(1) 足の裏でも音を感じろ!

 これは、初代の永世名人が言った言葉として、かるた関係者から聞いた言葉である。
 よく譬えなどでは、「全身を耳にしろ」というような言葉を聞く。全身全霊をかけて全力で読み手の 発する音を集中して聞こうとする心構えを説いた言葉だ。
 しかし、そうではなく「足の裏」である。極めて局所的である。普通に考えれば、「全身…」のほうが 説得力がある。だが、私はこの「足の裏」にセンスを感じたのである。
 なぜならば、この言葉の背景は「靴下」を履いてかるたを取る選手に向けてのものだったからである。 単に「靴下を脱ぎなさい」とか「靴下を履いているとすべるから脱いだほうがいいんじゃない」とか、 「いい若いやつが寒がってるんじゃないよ!」というよりも、選手の気持ちに届く言葉なのだ。
 「足の裏」を「耳」にするのでも、「足の裏」で「音を聞く」のでもない。「音を感じる」のである。
 耳で聞く場合は、音の波動を鼓膜でキャッチすることで聞くわけだが、足の裏は聞く機関ではない。 そこで、「足の裏を耳にして聞く」のではなく、足の裏で音の波動を「感じる」のである。
 実際、足の裏で音を感じるという経験をしたことはないが、かるた選手が音に対してどれだけの思いで 向き合っているのかをセンス良く表現した言葉だと思う。
 私は、この言葉を耳にして以来、冬の寒い中でも、試合中は靴下を脱ぐようにしている。 (レッグウォーマーを使うことはあるが、、、)

(2) 敵陣は遠いからこそ取りにいくんだ!

 何故、敵陣を攻めろと指導され、敵陣を攻めるのか?
 一つの回答は、かるたの要諦の第4条にあると思うが、この 「遠いから」の言葉も捨てがたい。
 野球界に「なぜ外野に打ち返すのか?」という疑問に対しての答えがある。「内野はあんな狭い中に ピッチャーを入れて5人も守っている。しかし、外野はあんな広い範囲に3人しか守っていない。どっち に打ち返せば、ヒットになるかは自明の理だろう」というものだ。
 だからといって、外野に打ち返そうと思って簡単に打ち返せれば誰も苦労はしない。しかし、この回答 を聞くと「なるほど」と思ってしまうのだから不思議なものだ。
 「遠いから取りに行くんだ」という言葉も、この感覚に近い。敵陣を取りにいくということは「攻める」 ことである。自陣は近い。そして敵からは遠い。敵陣は敵からは近く、自分からは遠い。したがって、 決まり字を聞いてから敵陣に取りにいったのでは、距離の差で不利である。この距離の差をカバーする ために、「遠いからこそ」決まり字を聞くまで待たずに敵陣に攻めにいくのである。
 野球と一緒で、だからと言って簡単に「遠いから取りにいって取れる」のであれば、誰も苦労はしない。 でも、なんとなく首肯してしまう理由なのだ。
 私は、この言葉はI先輩から聞いていたつもりでいたので、後輩に「これはI先輩が言っていたことだが」 と説明した。その後輩はI先輩に確認したら、当のI先輩はそんなことを言った覚えはないという。そのこと を後輩から聞かされ、私の記憶は混乱した。私はいったい誰から聞いたのであろうか?
 でも、だれかが(たぶん先輩の一人が)私に言った言葉なのである。まあ、記憶は曖昧なものだという こともあわせて認識してもらえればよいであろう。

(3) 25枚あてれば名人にでも勝てる!

 これは、私の競技かるた同期の男が、まだかるたを始めて1年に満たない時に言った言葉である。
 何が印象に残っているかというと「2つの点ですごい」と思うということを競技生活が短い段階で さらっと言っている点で印象に残っているのである。
 まず、ひとつは「名人に勝つ」ということをC級くらいの段階で念頭において発言していることである。 相撲部屋に入門したばかりの新人が、「夢は横綱になることです」と語ることはあっても、その段階で 「横綱に勝つこと」を普通は具体的には考えないものある。自分の所属部屋に横綱がいたとしても、 けいこの相手さえしてもらえないだろう。
 名人と対戦できることなど、考えがたいような時期にこういう仮定で話せるということはすごい男だと 思った。私など考えもしなかったからだ。
 もう一つは「かるたの本質」を見事に象徴している言葉であるからである。「あてる」ということは 「次に出る札をあてて決まり字を聞いて確認して取る」ということではない。この場合の彼の言葉は、 決まり字前に取ってしまいたとえば二分の一の確率勝負に勝つということである。この確率勝負を はずさずに(すなわちお手つきせずに)相手より先に25枚札を取れば、たとえ相手が名人であっても 勝てるということなのである。
 何が、かるたの本質かというと「相対的はやさ」を明確に認識していることである。もちろん、 この前提は、名人が決まり字前に二分の一の確率にかけて札を取るようなことはしないということで ある。だからこそ、決まり字前に取れば、相対的にはやく取れるということであり、それを 相手が札を25枚減らす前に(相対的にはやく)25枚取ってしまえば勝てるということなのである。
 一回もお手つきせずに出札を25枚あてることは、確率論的に無茶苦茶低く現実的ではないが、 この言葉を豪語するということは大したものだと今でも感心するのである。というか、今だから こそ、当時よりももっと「あいつはすごいことを言っていたんだ」と感心するのである。
 しかし、この彼と私の同期であるKがかるたを始めて2年たたずにA級にあがり、大会において 時の名人に勝った時は「25枚あてなくても同期が名人に勝った」と大変驚いたものである。

(4) 私は上段でA級にあがったようなものですから、、、

 この話は、私のHPの中ではちょくちょく出てくる話である。
 まずは、上段論のときである。この時、彼女は「私は上段(中央部)で A級にあがったようなものですから、、、」とは言っていたものの、大学に進学して自分のかるたの変革を 試みて、上段に封印をしている時だった。
 そして次に、私は後輩への手紙で封印を解くように呼びかけたのだった。
 この2つのWEB-SITEを読んでいただければ、どうして印象に残っているか、ほぼ、おわかりいただけたもの と思う。
 この言葉の凄みのひとつは、「A級にあがった」という結果に対して、その理由の大きなパーセントを 占めるものが「上段の配置・取り」という自己のスキルにあるという自負の大きさである。
 そして、もうひとつの凄みが、この言葉からストレートには伝わってはこないが、この言葉の背景にある ストーリーにあるものである。それは、自負していたそのスキル、自分の武器となるべきそのスキルを 惜しげもなく封印して、A級での新たな自己のかるたづくりを始めたという「潔さ」なのである。
 私であれば、前者ほどの自負があれば、A級にあがったならそのスキルに磨きをかけ、A級でも通用する スキルにしていく。封印したり捨て去るという度胸はまったくもてない。
 壁にぶつかり抜本的改革が必要だと感じても、何かしらは過去を引きずるのではないだろうか。 以前の良いものは残して、悪い部分を変えようと考えるのが人の性(さが)というものである。
 トランプのポーカー競技にはいろいろ遊び方があるが、クローズドポーカーで、役確定札を 残してそうでない札を数枚替えるのが前者の人の性(さが)的手法だとすれば、手札をいっぺんに 5枚全部かえるのが、この上段封印という大改革手法であるといえるだろう。
 ポーカー的にいえばこの大博打が奏功したか否かは、評価の割れるところであるが、当の本人は 今ではどう思っているのであろうか。大学卒業後はお目にかかってはいないが、自己評価を聞いて みたいところである。
 さて、今、B級以下で壁にぶつかっている諸君は、「私は『これ』で昇級しました」と言える武器を もっているのであろうか?
 そのぐらいの自負のもてるスキルをぜひ身につけてほしいものである。この言葉からは、こちらの ほうの言葉の「凄み」を感じてほしいと思う。

(5) 王道かるたは右でなければならない

 この言葉については、サウスポー論(1)の事例3に出てくる人物 の言葉である。読んでいただければ、だいたい様子はわかるだろう。
 ここでのテーマは、(4)のところで述べたA級昇級後の過去の自分のスキルとの決別というテーマ とほぼ一緒である。その「潔さ」とかるたに向かう真摯な考えが印象強いのである。
 (4)のテーマの一部とかぶるテーマではあるが、キャラクターは相当に異なる。きっかけも随分と 違うだろう。
 この言葉の主は、サウスポーとしてD級からA級昇級までを戦ってきた。しかし、かるたの理論を自分 なりに考え、右利きの選手同士の攻めあいのかるたが主流の中で、導き出したものが彼の言うところの 「王道かるた」というスタイルである。
 ここで「王道かるた」について、私がいろいろ書くと「そこは違いますよ」と細かく反論がくると 思われるので書かないが、彼の目指すかるたが「王道かるた」であり、おそらく彼が理想とするのが この「王道かるた」であった。その「王道かるた」には左利きバージョンはなく、右利きのかるたで ないと実現できないと彼は考えた。
 そこで、この言葉となるのである。
 過去の実績との決別という点での「潔さ」ということは(4)と共通だが、彼の場合、理想の追求・ 理想の実現のための決別という強い信念に基づいたものであるという点で、(4)とは異なる。(4) においては、過去の封印は新しいものを得るための模索であった。すなわち、手探りの状態での 船出だったわけである。しかし、この(5)の場合は、手探りではなくそこに目指すものを見据えての 船出だったのである。
 野球にたとえると、前者が右のサイドハンドの技巧派ピッチャーだったのが、自分のストレートの 威力をどのくらい伸ばせるかを試すためにスリークォーターへのフォーム変更を試みている状態だと すると、後者は左のサイドハンドの技巧派ピッチャーが「俺は右の本格派ピッチャーになる」と宣言して、 いきなり右のオーバーハンドの速球派のピッチャーに転向したようなものである。
 あまりいいたとえではなかったかもしれないが、こんな印象なのである。
 しかし、ここまで真摯に突き詰めてかるたについて考えて、言葉を発し、その自分の信念に従って、 過去と決別し、大変革を実施したという事実は、きわめて強いインパクトを私に与えた。
 理念を言葉にし、それを実際に行うことは、なかなかできることではないのである。
 首都圏を離れ、いわゆる地方に就職をし、その地でかるたを取っていたが、今は消息を聞かない。 今でも「王道かるた」の理念にゆらぎはないかどうか、逢うことができれば聞いてみたいものである。

 
私のかるたに影響を与えた言葉

次の話題へ        前の話題へ


"競技かるた"に関する私的「かるた」論のINDEX
慶應かるた会のトップページ
HITOSHI TAKANOのTOP PAGE

Mail宛先