紀貫之

人はいさ心も知らずふるさとは
   花ぞ昔の香ににほひける


決まり字:ヒトワ(三字決まリ)
 作者は、紀友則凡河内躬恒壬生忠岑らの古今和歌集の選者の中でも中心的な一人と 言っても過言ではないであろう。土佐守の任期を終えて帰京する際の紀行文「土佐日記」などの 作者としても名高い。しかも、当時、日記といえば男が漢字(真名)で書くものを、女性が書いた 形をとって仮名で書いたことでも、土佐日記は有名である。
 紀貫之は、仮名の使い手でもあったのだ。
 古今和歌集の真名序は紀淑望が書き、仮名序は紀貫之が書いた。仮名序は、歌論としても名高い。 仮名序において評されている歌人であるところの六歌仙については、喜撰 法師の項で少しばかり紹介したが、和歌とはどういうものかについて述べている部分を以下に 紹介しよう。

 やまとうたは、人のこころをたねとして、万の言の葉とぞなれりける。世の中にある人、 事、業しげきものなれば、心に思ふ事を、見るもの聞くものにつけて、言ひいだせるなり。 花に鳴く鶯、水に住むかはづの声を聞けば、生きとし生きるもの、いづれか歌をよまざ りける。力をも入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、男女の なかをもやはらげ、猛き武士の心をもなぐさむるは、歌なり。

 これが、紀貫之の和歌観であり、当時の歌詠みのほぼ共通の認識だったのではないだろうか。
 藤原定家が古今集から数えて八番目の勅撰集新古今和歌集の撰に 携わるにあたり、この紀貫之の和歌観の影響を受けなかったはずはないだろう。
 それほどに、紀貫之は大きな存在であったのである。

 紀貫之が、百人一首の前半部分の歌論・歌学の巨魁だとすれば、後半部分では貫之に対応する 歌論・歌学の雄は誰になるのであろうか。当然、定家自身も自負はあったろうし、父俊成も候補 のひとりかもしれない。歌学の家のものの多く百人一首には採られている。しかし、定家が貫之 と対応させようとした人物が誰かは、撰ばれた歌から見えてくるのではないだろうか。

 貫之のこの歌の詞書は「初瀬に詣づるごとに宿りける人の家に久しく宿らで…云々…」とある。 そして、百人一首の後半、「初瀬」を詠んだ歌がある。「俊頼髄脳」などの歌論書で有名な 源俊頼の「うかりける」の歌である。
 定家は、同じ初瀬の歌を採ることで、歌論・歌学の雄として俊頼を貫之に比すことにしたのではない だろうか。
 そう考えると、ますます、百人秀歌との共通の歌人98名の中で、俊頼だけが秀歌に百人一首と 異なる「山桜咲きそめしより久方の 雲ゐに見ゆる滝の白糸」という歌を取り上げられていることに 定家の計り知れない意図を感じてしまうのである。

 これで99リンク。ラスト1となった。

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2008年5月6日  HITOSHI TAKANO