鎌倉右大臣
世の中は常にもがもな渚漕ぐ
あまの小舟の綱手かなしも
決まり字:ヨノナカワ(五字決まリ)
百人一首の中には、左大臣が二人、右大臣が二人いる。
河原左大臣、後徳大寺左大臣、三条右大臣とこの鎌倉右大臣、すなわち源実朝である。
源実朝は、頼朝の子で、鎌倉幕府第3代将軍である。兄が第2代将軍頼家である。兄は、
修善寺に幽閉され23歳で殺害され、彼も鶴岡八幡宮で甥の公暁に28歳で暗殺される。
身分不相応に官位があがると早死にするとも言われるが、彼は、大江広元に、子孫のために
官位を残しておき、征夷大将軍でよしとして年をとったら、大将の官をもらえばよいのでは
ないかといさめられるほど、官位の昇進を望んだ。
実朝は、広元に源氏の嫡流は自分で終わりだから、子孫に残すこともないので、わが身を
もって源氏の栄誉とするのだと答えたと言う。自らの悲劇的な最後を予期していたのかも
しれない。
正二位右大臣となり、その礼に鶴岡八幡宮に拝賀にいったときに悲劇がおこった。
この日の朝、本人は悲劇を予感していたのであろう。屋敷を出るときに詠んだ歌が次の
歌である。
「出てゐなば主なき宿となりぬとも軒ばの梅よ春をわするな」
菅原道真の「東風吹かば匂いおこせよ梅の花あるじなしとて春なわすれそ」の歌を思い
描いていたのであろうか。
和歌の師匠は、百人一首の選者である藤原定家であった。歌集に金槐和歌集がある。
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2008年3月 HITOSHI TAKANO