愛国百人一首

長奥麻呂

大宮の内まで聞ゆ網引すと
   網子ととのふる海人の呼び声


<愛国百人一首における決まり字>
オオミヤ(4字決まり)
<愛国百人一首における同音の数>
オ音20枚のうちの1
<歌意・鑑賞>
 「大宮」は、難波宮であろうか、海が近いことがこの歌から推測される。「網引きすと」は「あび きすと」と読み、網引きをするとての意。「網子」は「あご」と読む。網を引く人のことである。 「ととのふる」は、網を引く人々を呼び集めて揃えるの意味である。「海人」は「あま」で、漁師。 ここでは、「網子」と「海人」を区別している。「海人」は網引漁を仕切る主体で、「網子」は網引 漁にかりだされ手伝う大勢の人というような区分けなのだろう。
 大宮の内まで聞こえることである。網引きをするというので、網を引く人々を集める漁師の呼び声 が。
<コメント>
 長奥麻呂は「ながのおきまろ」と読み、「意吉麻呂」とも書く。伝は不詳であるが、いわゆる万葉 歌人と言ってよいだろう。持統太上天皇の行幸の際の歌も残る。この歌 の制作背景もわからないのだが、文武天皇3年正月に難波宮に幸されたときの歌ではない かという説が有力とのことである。

 この歌の解説で、愛国百人一首の各首紹介で、とうとう100リンクを達成した。

 最初は、小倉百人一首と作者のかぶる11人の歌について解説をつけ、相互リンクをはった作業で あった。そのころからずっと、愛国百人一首の100首の各首の解説をリンクしていく過程を追って きた読者には、この歌が100首めであることをおわかりいただけることと思う。しかし、100首 のリンクが完成してから読まれる方は、この歌が冒頭の2首めであることで、違和感を思えることだ ろう。冒頭の一首めが、リンク順番でいえば、同じく1番で、2首目がいきなりリンク100番なの である。1番から順番にリンクをクリックして読まれている方は、「なんで?」と感じられるはずで ある。小倉百人一首共通作者の11首を最初にリンクした以外は、順番をきちんと決めずに、馴染み がある歌や作者、その歌や作者と本文中でかかわりの出てきた作者などというように解説リンクをふ やしていったのだ。というわけで、2番目の長奥麻呂は、たまたま最後になってしまったわけである。 だいたい、万葉集にしか伝のない歌人というものには、私はあまり縁がなかったことを証明している ようなものである。というわけで、最初のリンクと最後のリンクの間の2番めリンクから99番めリ ンクの98首は、冒頭からの3首め以降の98首なのである。(決まり字のリンクから見ている人は、 あまり気にしないことであろうが…)

 実際、愛国百人一首の各首解説の百リンクは、小倉百人一首と比較してやはり難しかった。百首分 の歌が、頭に入っていないことが、その理由のひとつであろう。また、決まり字をみても、作者名が わかるものはごくわずかであったこともそうだ。歌意にしても鑑賞にしても同様である。要するに、 歌にはほとんど馴染みがないのである。むしろ、作者のほうが、歴史的に知っている人物が多くいて、 まだ馴染みがあるといえる。

 小倉百人一首の選者定家の孫の為氏の ところで少し書いた、定家の思いや言霊の精華としての和歌を用いた 呪術的仕掛けとしての小倉百人一首の構成という面を、また、違う視点から考えてみたい。
 小倉百人一首には、選者である定家の死後の歌は撰歌されるわけがないことは、自明の理である。
 しかし、愛国百人一首には、為氏という定家自身の孫の歌が加わっている。定家は、自分の考案した 百人一首という私撰集のスタイルの歌集に孫の歌がのるなどということを予測しえたであろうか?
 答えは、もちろん「否」である。
 まして、百首でなくとも「○○百人一首」というネーミングで和歌を募集するようなことが、800 年の時を経て、この平成の世に行われていることなど想像のしようもなかったに違いない。
 しかし、本当にそうなのだろうか?
 定家は、「紅旗征戎吾が事にあらず」と言い、権力闘争としての戦さには関わらず、和歌の道の中に 生きた人物である。当然、歌詠みとしては、紀貫之が記した古今集仮名序 の「やまとうた」の本質についての信奉者であったはずだ。

 やまとうたは、人のこころをたねとして、万の言の葉とぞなれりける。世の中にある人、事・業しげ きものなれば、心に思ふ事を、見るもの聞くものにつけて、言ひいだせるなり。花に鳴く鶯、水に住む かはづの声を聞けば、生きとし生きるもの、いづれか歌をよまざりける。力をも入れずして天地を動か し、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、男女のなかをもやはらげ、猛き武士の心をもなぐさむるは、 歌なり。

 「力を入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ」る和歌の力を、小倉百人一首 に込めているに違いない。思うに、小倉百人一首だけではなく、「百人一首」という「秀歌撰」のスタ イルにも、そういう思いを込めていた可能性も充分にありうるのではないだろうか。
 そうすると後世、同じ「百人一首」スタイルの秀歌撰があらわれることをも予測してというか、そう あってほしいとの願いをもこめていたのではあるのではないだろうか。
 見事に、後世に小倉百人一首自身も残り、多くの人間が和歌として覚え、競技として歌留多を楽しむ ことで和歌に触れている。そして、「百人一首」という秀歌撰のスタイルで、多くの和歌が巷間に広が り、時代を超えて伝わっている。
 実際、新百人一首、後撰百人一首、武家百人一首など、「異種百人一首」と呼ばれるものが、後世に 出たわけである。愛国百人一首も、この異種百人一首の系譜に連なるものである。

 さて、愛国百人一首の特徴ということでは、「愛国」という括り以外の点では、歌人の年齢層の幅広 さである。最年少での歌は森迫親正の17歳の辞世の歌、最年長で の歌は113歳の尾張濱主の天皇の御前での歌である。年齢の幅、 なんと96歳である。また、採録されている歌の年代も7世紀から19世紀までと、約1200年間の 幅を持つ。ただし、年代によって、採録数にもばらつきがある。安定期よりも動乱期のほうに歌が多く 集まっている傾向があるといってよいだろう。さらには、男性が多く(僧侶3をいれて96)、女性は わずか(尼僧1をいれて4)しか撰歌されていないという点も特徴といえるかもしれない。
 これから、残り98首を見ていく方には、こんな点にも、気をつけながら、読んでもらえればいいと 思う。

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2008年6月13日  HITOSHI TAKANO