再・後輩への手紙(7)

Hitoshi Takano NOV/2013

「隠れ“守りかるた”」のすすめ


前略  RKさん、この間の練習で「守ることの快感・楽しさ」に ついて、少々、お話をしましたが、大変、興味のあるテーマなのでここで 取り上げることにしました。 しばらく、おつきあいいただければ幸いです。

 実は、「守りかるた」に関しては、過去にも以下のように言及したことが あります。手間をとらせますが、クリックして読んでみていただければ、こ の話の背景が認識できることと思います。

  :*「守りかるたに関する一考察」
  :*「かるたにおける攻めと守り」
  :*「守りかるた〜一般論として〜」

 家庭で「かるた」に接していた経験をもっているということでしたから、 「守りかるたに関する一考察」に書いたように、最初は得意札や自分の知って いる札を手元に置くようにして、素早く取っていたのではないでしょうか?
 こうした原体験は大きいです。
 私も、小学生の頃、「坊主めくり」から入って、本当の遊び方ということで 百人一首のかるた遊びを教わった経験があります。大人に混じって取らせて もらえた手元に置いた得意札の記憶が、「楽しかった」・「嬉しかった」と いう感情と結びついたものとして残っているように思います。そういうわけで、 取れた時に「快感」になるのだと思います。
 しかし、不思議なもので「敵陣」で得意札を早く取るという嬉しさ感よりも、 「自陣」の定位置でしっかり守って早く取ったほうの嬉しさ感がまさるのです。
 これには個人差があり、どこで取っても取れた嬉しさは一緒という人もいれば、 敵陣で取ったほうが嬉しいという人もいるようですが、私は圧倒的に自陣快感派 です。子供のころの「手元に置いて」素早く取るという記憶が、潜在的意識に強く 残っているのでしょうか。

 それもあるでしょうが、私の場合は、性格にもよると思います。将棋の棋風も どちらかというと守りです。受け将棋といえば、聞こえがいいかもしれません。 相手の攻めを受け切ってから、攻撃に転じる感じです。もちろん、受け切れなけ れば、攻めつぶされます。子供のころの将棋は、相手の攻めてくる駒を取って 使わないものだから、駒台(といっても駒の箱の蓋とかでしたが)には取って 使わない駒が一杯でした。それが一杯になったらやっとその駒を使って攻めに 出るという感じでした。
 そんなこともあって、いまだに将棋は強くなれませんが…
 RKさんは囲碁の打ち手ということですから、囲碁の棋風についても聞いてみたいですね。

 こう考えると、性格的に「攻め」に向く人、「守り」に向く人というのが、 いてもおかしくないように思います。
 今、「性格的に」と書きましたが、「守りかるた〜一般論として〜」で紹介した 「守りかるた」、特に大石天狗堂の札の同封のしおりに書いてあるような送りの 方法論を実践するような「守りかるた」は、性格だけではできるようなものでは ないと思うのです。
 この方法論を使う「守りかるた」で上達するには、絶対的に「感じの良さ (響きの良さ)」が必要だと考えます。
 自陣の一字決まり、二字決まりを守る。友札はくっつけておいて守る。そうで なければ、相手に友札を送ってくっつけてしまう。これって、要するに感じの良さ を最大限に活かすために、お手つきのリスクを減らす送りの手法です。現在の 「攻め」重視のかるた界においては、相手はにとっても攻めやすい、お手つき しにくいというメリットがありますが、そのメリットを活かさせないほどの 守りをしなければなりません。それには絶対的な感じの良さは欠かせない能力なの です。「性格だけではできない」というのは「感じの良さという能力がないと できない」ということでもあるのです。

 ところが、ここがかるたの不思議なところなのですが、感じが遅いがゆえに 守りに向くというケースも存在します。以前に書いた “かるた三省”という記事の「適」という章を 読んでいただけるとわかるかと思いますが、たとえば、友札が自陣と敵陣で別れて 存在している時に、感じの良い人は敵陣にサッと手がでますが、感じの遅い人は、 一音目に感じて手が敵陣に向かおうとした瞬間に二音目(場合によっては三音目) が聞こえてしまい、札への近さの利を得て自陣のほうの札をぴったりのタイミングで 取れてしまうというような場合が、これに該当すると思います。
 先に「守りかるた」の例示であげた友札をくっつけてしまう送りの考え方は、現在 かるた界を席捲する主流といってよい「攻めかるた」の友札をわける送りの考え方 とは、相容れませんが、このわかれた友札の音が感じが遅いゆえに聞こえてしまう から守れるというケースは、「攻めかるた」の友札をわける送りの考え方でないと 実現しないケースなのです。
 前者のパターンは、「守りかるた」と「攻めかるた」は異なる言語で会話しようと しているようなものですが、後者のパターンの「守りかるた」は「攻めかるた」と 同じ言語で会話しつつも方言程度の差があるといえばイメージがつかめるでしょうか。

 さて、そこでいよいよサブタイトルの「隠れ“守りかるた”」の話になります。
 「攻めかるた」全盛の現在、大学の練習にいけば「攻めろ!攻めろ!」の大合唱 で、初心者には「自陣なんか覚えなくていいから敵陣を暗記して攻めろ!」という 先輩からの指導です。この指導の功罪については、 「“指導”の方法論〜単純化の功罪〜」にも 書きました。単純化された理論は、自分の体験で納得して身につけないと身につか ないものです。「自陣なんか覚えなくていいから敵陣を攻めろ」では、自陣で得意 札を守って取ることに快感を覚える人間にとっては、楽しみを奪われることに他 なりません。得意札を先輩に聞かれ、馬鹿正直に答えると、それを「敵陣に送れ」 と言われます。このとおりにすると、自陣に得意札を置いておく安心感やそれを 取るときに楽しさ・嬉しさを味わうことはできません。
 そんな時、自陣で札を取ることの快感を確保したい選手がすることは何でしょうか?
 禁断の果実かもしれませんが、「隠れ切支丹」ならぬ「隠れ“守りかるた”」を 実践するしかないのです。
 送りのパターンや「攻める」という表面上の意識については、「攻めかるた」と いう共通言語を使用します。しかし、「隠れ“守りかるた”」では、独自の方言を 使うわけです。
 送りや札の配置は、基本的に「攻めろ」と教える先輩たちと同じようなパターン を取るものの、この札は得意札で自陣で守って取りたいという札は、きちんと 自陣に残し、自陣で素早く守って取るようにするのです。
 守って取って快感を得る札は、そうそう多いわけではありません。充分に迷彩 の中に埋没する程度の数のはずです。
 また、友札でも、どうしてもこの札は自陣に残して守りたいという札があれば、 札の送りをするときに、それは自陣に残して異なる札を相手に送ればよいのです。 そして、その第一音が出たら自陣の札に意識をもっていき聞き分けて、自陣でなけ れば敵陣を取りに行けばいいのです。ただ、それで敵陣が出て取れなくても自己 責任ですから、あきらめましょう。
 決してしてはならないのは、自陣を取りにいっての自陣お手つきです。これを やると「攻めないからだ…」などなど注意されること必定です。
 この「隠れ“守り”」の良いところは、相手の計算を狂わせることです。「攻め」 を教えている先輩、「攻め」を教わっている同級生、真面目な「攻めかるた」の 徒は、友札の別れで敵陣が出たなら、自分が取る勘定でいます。これが、きっちり 攻めに行っても取れないとなると、予定が狂います。「隠れ“守り”」のせいで 相手に取られたのではなく、自分の攻めが遅いから相手に取られたんだと思って くれればしめたものです。
 もっと早く攻めなければならないと自分のリズムを崩したり、お手つきをして くれれば、「隠れ“守り”」の効果が充分に発揮できたということになります。
 ただ、気をつけてほしいのは、お手つき以外にももう一つあります。
 それは、相手に自分の得意札がばれていまい、しかもそれを守っていることが さとられてしまうことです。相手は、その札を意識して狙ってきます。
 この狙いをしのげるかどうかも大事ですが、そこにこだわるあまり、全体が おろそかになるならば、試合中にこだわるのはやめて、得意札は意識せずとも 自然にはやく取れるように日頃から訓練すべきです。
 そして、狙われて相手に取られたら「それはそれでしかたがない」くらいの 気持ちでいることが大事です。
 相手に取られても、相手がその札を狙ってくれることで、全体の取りのバランス を崩してくれれば、試合の流れの中では効果があったということになるのですから。

 最後にもうひとつ、「隠れ“守り”」のための便利なツールを紹介しておきま しょう。
 これも以前書いたことなのですが、 「上段論〜主に中央部の利用について〜」を 読んでみて下さい。
 上段中央部について、私は現代のかるた界の「攻め」全盛の潮流にあって、ここは 「守り」に役立つ定位置と認識しています。ここは、「隠れ“守り”」のためにある 場所と言ってもいいくらいの配置場所です。ここで守るのも、また快感ですし、割と 視界に入りやすいので、見えてしまってはやく取れるということのある場所です。 特に最近はあまりここに札を置く人がいないため、手が浮いたり、お手つきしたり、 気になって下段への攻めができなかったりという若手もいます。
 この話を聞いただけでも「隠れ“守りかるた”」の血が騒ぎませんか?
 そして、「攻めろ」という先輩たちから批判を受ければ、言い訳の言葉はすでに 用意されています。
 「上段論」でも紹介していますが、偉大なる先人である夏目氏の言葉をもって 主張すればいいのです。以下に引用させてもらいます。

 「又上段に札を少なく列べ勝ちですが、之は消極的戦法であって実戦におきまして 非常に損なならべ方と言わなければなりません。即ち競技かるたには守勢に傾むく ことは禁物であって、七三程度攻勢をとってこそ、初めて敵の札を自分の札と同じ ように、とれるものなのです。此の理由は簡単であって、上段に多く札をおくこと に依って積極的攻勢に移れるものなのです。」
 そして、こう続きます。
 「そして此の陣形は敵方としては守勢に余儀なくならざるを得なくなって、従って 自分の中段とか下段は、敵としてはとりにくくなるものなのであります。ですから、 十二分に攻め立てても楽に自己の陣営は守れるものであります。」

 先輩への説明に使うのは前半だけでよいでしょう。「攻め」の姿勢のために 上段においているのですといえば納得してくれると思います。あくまで、「隠れ」 であることが、大事です。普段は「攻めかるた」を装い、「守り」という本質は 人にさとられてはいけません。
 なお、夏目氏の言葉で、「隠れ“守りかるた”」にとって重要なのは、むしろ後半です。「守勢に余儀なくならざるを得なくなって」については、現代のかるたの攻め 重視の趨勢からは疑問も出てくるでしょうが、「敵としてはとりにくくなって、 攻め立てても楽に自己の陣営は守れるものである。」ということは「隠れ“守り”」 にとって重要な示唆であるのです。
 「隠れ“守り”」を目指すのであれば、ぜひ、上段中央部の活用も考えてみて ください。

 先日も言いましたが、初心者が「守り」の払いができるようになってから、 「攻め」の払いができるようになることも可能なのです。
 「攻めは、守りの延長」という考え方で考えてみればよいのです。そして、 最後に「隠れ“守りかるた”」を目指す人への一言を書きましょう。

「守りの札は美しい」


 では、また、練習で顔を合わせましょう。
草々


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