TOPIC   "番外編"

"Breakthrough"考(4)  -枷を外す-

Hitoshi Takano   May/2015

テーマ:用捨在心

 このシリーズも第4回になった。いろいろテーマを考えてみて、大事なポイントに気がついた。それは、第2回で書いた「練習好き選手は「休息」=「非練習」=「悪」と考えがちなので、「休息」=「練習」=「善」という発想の転換の図式を示してあげることが大事なのである。」にあらわされている。
 「発想の転換」ということではあるが、それは今まで考えてきたことや教わってきたこと、すなわち「それが”善”である」という思考の枷をはずし、それまで「悪」と考えたことが実は「善」であるという思考に変化させるということに他ならない。
 「悪」という言葉も、歴史上「悪左府」とか「悪源太」とかの二つ名を背負った人物がいるが、これは必ずしも「悪い」という意味ではなく「強い」という意味を持つものであったことを考えれば、あながち(それこそ)悪い言葉ではないかもしれない。
 「枷をはずす」という表現をここで使ってはいるが、「守破離」という言葉の「破」であり、「離」であるとも言えるのではないだろうか。以前、私的かるた論にて「競技かるたにおける”守破離”」という文章を書いているので、それも見ていただければ幸いである。
 では、今回のテーマに沿って、どのような枷を外せばいいのかを考察してみよう。

 現代のかるたのポイントは「攻め」であり、指導のポイントも「攻めの重視」にある。私の関わる大学のかるた会でも新人への指導は、徹底的に「攻め」の重要性からはいる。極端なケースは、自陣を軽視しているとしか理解できないようなケースである。
 彼らにとって、この「攻め」の理論は「金科玉条」であり、絶対なのである。もちろん、この「攻め」中心の考え方、練習で初心者はぐんぐん強くなっていく(例外はあるが)。
 しかし、ある時、壁にぶつかるのだ。
 この時、二つの方策がある。それでも「”攻め”をもっと強く!」と「攻め」にこだわり続けるケースと、「攻め」以外に活路を見い出そうというケースである。
 「攻め」にこだわるケースを否定しはしない。これを続けて壁を克服する選手もいる。このケースには「背中を押す」必要はない。自分の中に「攻め=善」の図式ができているから、自己の信念に殉じればいいからである。たとえ、そこで成長が停滞したとしても、自分のやっていることは正しいと思っているので、本人が納得している点が大きい。
 しかし、「攻め」以外に活路を見い出そうとしている選手には、「背中を押す」必要がある。「攻め」以外の方策は「悪」と思ってしまっていることが多いからである。

「相手の攻めを防ぐことも立派な戦術だよ」

 こうした一言が、"Breakthrough"につながる。「攻め=善」は「攻めないこと=悪」と考えがちである。「攻めないこと」を別の言葉で言い換えると「防御」とか「守備」、そして単純に「守り」ということになる。「防御、守備、守り=悪」という枷をはずす必要がある。
 競技かるたで勝つために必要なのは「攻める」ことでも「守る」ことでもない。相手より先に自陣の札を絶無にすることである。この目的を実現するために必要なのは、札を取ることと相手にお手つきをしてもらうことである。この辺は「かるたの要諦”十箇条”」をご参照いただきたい。
 正しいのは、すなわち「善」は「自陣の札を減らすこと」であり、正しくないのは、すなわち「悪」は「自陣の札を増やすこと」(お手つき)である。
 札を取るというのは、攻めて取っても、守って取っても、自陣の枚数が一枚減るという事象においては、同様の価値なのである。ただ、攻めて取った時は、自陣から相手陣に札を一枚送ることができるという「利」があるということは間違いない。だから「攻めろ」と指導されるのだ。しかし、「守り」にも守りなりの「利」となる取り方がある。それは、取れると思って攻めてくる相手の取りを「守る」ことで敵の狙いをはずすという「利」である。
 この後者の「利」を言葉にして「背中を押す」のである。
 内心では、守って取ることに快感を感じている選手が、精神的な枷をかけられて、自然にできる守りをせずに無理をして不自然な攻めをしていることは不幸である。(参照:再・後輩への手紙(VII)
 攻めに限界が来たら、守りも視野に入れたらよいのだ。これが、"Breakthrough"につながるのだ。

 もうすこし事例をあげておこう。
 まずは、札の取りである。
 払い手、突き手、囲い手などは先輩から文句を言われることはないが、押え手をすると「押さえるんじゃない」と先輩に怒られた経験はないだろうか?
 初心者の時代、押え手は手が高く浮いてから押さえる感じで遅くなりがちであったり、押え手を多用すると払い手や突き手のスキルアップにつながらないところから、こう言われるのだろう。初心者の押え手にありがちなのは、上段の押え手で自陣・敵陣両方触ってしまう「お手つき押え手」という危険要因もある。しかし、A級の上位者でも「うまい!」とギャラリーを唸らせる押え手をする選手がいる。実は、「押さえるな!」と指導している先輩選手自身が押え手を使っているのだ。押え手は、低く押えれば、相手の手のブロックにもなるし、札に直接触れる「札直」になるので、取りの形態の一つとしてよい武器になるのだ。
 払い手や突き手などの取り方をマスターした選手には、押え手もマスターしてほしいと思う。

「押え手で取れるのならそれもありじゃない!」

 こうした言葉で「押え手」を使うことへ背中を押してあげたい。「押さえちゃいけない。払わなければいけない。」という精神的な枷で、「押え手」が上達する機会を奪ってはいけないのだ。ただ、高い手の位置からの押え手や、札を何段にもわたって触るような押え手には、たとえ取れたとしても「美しくない」とちゃんと警告を与えてあげることも必要だろう。
 「押え手」も含めて、取りのための武器は多いにこしたことはない。多くの武器を身につけることが、"Breakthrough"につながるのである。

 もうひとつ事例をあげよう。
 札の送りである。
 先輩たちからは、いろいろとセオリーのようなことを言われる。特に新人の頃は、自分でもどの札を送っていいのか迷うことも多い。先輩にNGを出されないような送りを自分の直感とは異なると思いつつしてしまう自分がいたりする。
 でも、気にすることはない。経験を積んできた選手が札の送りに悩んでいるとすれば、次の言葉で枷を外してあげたい。

「札の送りは"用捨在心"。自分で決めて後悔しなければそれでいい。」

 この考えが、"Breakthrough"につながるのである。

 ここにあげた事例は一部にすぎない。今までとらわれていた「枷」をはずすことを様々な面でやってみてほしい。その"Keyword"は、藤原定家が残した「用捨在心」の言葉にある。「枷」を外し、自分自身で物事を決めていく「用捨在心」の精神を実践していけば、それはきっと"Breakthrough"につながるだろう。

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