TOPIC   "番外編"

アマとプロ

Hitoshi Takano NOV/2015

 前回のTOPICで管理人のひとりごとの第2回を書いたが、ふと考えるとこのTOPIC自体が管理人のひとりごとである。これからは、「管理人のひとりごと」とのシリーズタイトルを名乗るときは、それなりにひとつの傾向を持たせないといけないかもしれない。もう少し、「ひとりごと」感の強い文章のときに使うほうがよいだろう。

 今回のタイトルは「アマとプロ」ということであるが、このことについては、今までも書いてきたテーマである。

 「引退」ってなんだ!の「アマチュアに引退はない」を皮切りに、Professionalしかり、プロ化の可能性しかりである。削られる肉体でも、多少はこのテーマに触れている。

 何故、またこのテーマを取り上げるのかというと、以前書いたときから10年以上が経過しているので、別の切り口で語ってみてもよいかなと思ったことも一つの要因である。さらに、まんが「ちはやふる」で「プロ」の話が出てきたことも、この話題に食指を動かした要因である。
 何より、大きかったのが、ある活字媒体で「アマは楽しみ、プロは苦しむ」という記事を目にしたことによる。
 この記事のもともとの話は、以下のWEB-SITEでモリのクマさんの「徒然窓」のコラム「楽しみはプロの世界を通り抜け」に出ているようなことだったのだろう。

 とりあえず、読んでいただいたほうがよいのだろう。→参照

 冒頭を引用すると「伊東四郎氏が2代目尾上松録から『アマチュアとは楽しむもの,プロとは苦しむもの』というアドバイスを受けたそうです。」ということで、ここからコラムが始まっている。発端の語り手・聞き手からして、芸をお客さんに見せる立場の演者にとっての言葉である。当然のごとく競技かるたの世界を意識したものではない。このコラムにはこのコラムとしての趣旨があるので、中身は読んでいただくとして、私は端的にこの「アマは楽しみ、プロは苦しむ」という表現にのみ反応したわけなのである。
 知ってのとおり、競技かるたにプロの制度はない。選手は仕事を持ちながら、また若い選手だったら学生の身分を持ちながら、二足のわらじを履いて競技に打ち込んでいる。プロ制度がないために精神的なプロでありながら、生活のための生業(本業)を持っている選手のことを以前書いたが、ひとつの指標としてこの「楽」と「苦」を使えるのではないかと思ったのだ。

 プロであっても、成果を得られた時は、その過程において苦しい道のりがあったとしても「楽しい」と感じることはあるだろうし、アマであっても、成果を得るために「苦しい」と感じられる努力をすることもあるだろう。したがって、二律背反で「楽」と「苦」を考えるのは適切ではないだろう。そうすると、指標として注目すべきは「楽」ではなく「苦」であろう。 「苦」をどこまで受け止めきれるかという観点で、この点で、プロのない競技においても、精神的なプロかどうかをはかれるのではないだろうか。
 競技で結果を出すために選手が行うことは何か。ひとつには、競技そのものに対する向上を目指した努力、そして、コンディションを整えるための節制、さらに基礎トレーニングの積み重ね、それに費やす時間と金の捻出などなど。
 これらが、楽しいという選手もいるだろうが、壁にぶつかった時の悩みや節制の苦労、時間と金の優先順位の調整は、けっして楽しいものではないだろう。ここで「苦労」という単語を使ったが、まさに「苦」が含まれているのである。
 特にこの年齢になって感じるのは、肉体面の衰えである。よく「心技体」という言葉を使うが、「体」の衰えは年齢とともに必ず来る。日頃の節制が足りないとか基礎トレーニングが充分でないからだという指摘があるかもしれないが、それを実行していたとしても、確実に年齢とともに「体」の衰えはやってくる。以前に書いた「削られる肉体」そのものなのである。
 職域・学生大会の団体戦で4試合取ったあと、家に帰っても、身体が悲鳴をあげており、なかなか眠れない。うとうとしていても、身体の痛みで目が覚めるのである。これは、ここまでひどくはないにしても、普段の練習によっても生じることがある。フォームを整えていた としても、競技かるたの取りは、身体の特定部分に大きな負荷をかけるのだ。若いときは、この負荷も若さゆえの回復力によりなんとかなった。若いときは、むしろ脳の興奮がさめずに寝付けなかったことが多かったように思う。知命の年齢を超えると脳の興奮はそれなりの経験則による様々な方法で抑えられるが、この肉体的な負荷は押さえ込めずに重くのしかかる。
 この身体の痛みは、まさに「苦痛」である。痛みのもたらす「苦」である。
 この「苦痛」というリスクをあえて受けても、競技で成果をだすべく様々な苦労をしている選手は、まさに精神的なプロと言ってもよいのではないだろうか。

 ただ、「精神的なプロ」をあまりに強調すると、「心技体」が欠けたとき、プロとしての結果を残せなくなったとき、プロであるならば「引退」の二文字を頭に思い浮かべなければならなくなるであろう。
 「アマに引退はない」が「プロには引退がありうる」のである。

 苦痛には二つの種類がある。身体的苦痛と精神的苦痛である。「精神的なプロ選手」は、どちらに耐えられなくなるほうが早いのであろうか。そして、耐えられなくなった時には、そこにあるのは「引退」なのであろうか?
 プロのない世界で、「アマチュア」選手と「精神的なプロ」選手は、どちらが幸せなのであろうか?

 私は、まだ、その答えを見つけてはいない。
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