"競技かるた"に関する私的「かるた」論
番外編
掟破りの「かるたの要諦−裏5か条」
〜負のエネルギーを生じさせないために〜
Hitoshi Takano Aug/2015
「競技かるたの要諦−十箇条」は、幸い好評をいただいているようである。しかしながら、十箇条は、いわゆるお行儀のよい理論であるために、初心者から初級者、中級者くらいまでにはよいかも知れないが、"Breakthrough"を期待する中級者以上の選手にとっては物足りないように感じる。十箇条がいわゆる"表"の十箇条であるならば、以前書いたような"The forbidden fruit"(禁断の果実)的な正論とは異なるような"裏"からの視点を紹介することも必要なのではないかと思い至った。
その結果、今回記したのが、掟破りの「かるたの要諦−裏5か条」である。表の視点ではないので、ご批判は覚悟の上である。十箇条と矛盾することも書いている。しかし、これを読む対象は、中級者以上ということで、充分に批判精神をもって読んでくださるものと考えている。それこそ、十箇条の第10条ではないが、「用捨在心」の精神で、
うなずくべきはうなずき、首を振るべきには首を振って、読んでいただければ幸いである。
そして、もし、自分の考えに取り入れてみたら、"Breakthrough"につながったという結果を得たということがあったならば、作者としては望外の喜びである。
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"掟破り"の「かるたの要諦−裏5か条」
第1条 お手つきは相手がするもの、自分はしないと想定すべし。
第2条 守って取っても、取りは取り。1枚減らしたことを誇るべし。
第3条 遅い取りを恥じるべからず。
第4条 札の出は、確率論より自己都合と妄信せよ。
第5条 敗戦に自己責任を感じることなかれ。
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第1条 お手つきは相手がするもの、自分はしないと想定すべし。
普通に考えれば、お手つきは、相手も自分もしてしまう可能性があるものである。相手は、堅実な取り手で、お手つきなぞ決してしないタイプの選手かもしれない。一方、自分を省みると、一試合に三回くらいはいつもお手つきしているというような時、いろいろなシチュエーションで友札を分けたり、送り札を決めて送る時に、ふと脳裏を掠める意識がある。
それが、「ひょっとすると、この札を送ったことで、自分がお手つきをしてしまうかもしれない」という不安というか、弱気である。
こんな選手が、負のスパイラルに陥りやすい。
そこで、この第一条である。
札を送るとき、自分の心に言い聞かせる。「お手つきは相手がするもの、自分はしない」である。もちろん、バリエーションも有る。「相手がお手つきしてくれるから、自分はしない」でもいいし、「相手が自分より早く払ってお手つきしてくれるから、自分が取りにいったときには札が残っていないので、自分のお手つきにはならない」でもいい。とにかく、自分に都合よく考えて「えいやっ!」と札を送ればいいのである。
札を送る場面だけではない。とにかく、インターバルで札の確認をしているときでもいい。危なそうな札があったら、「自分はお手つきしない。相手がしてくれる」と都合よく思いながら、暗記をいれなおせばよい。
もちろん、だからと言って、相手がお手つきしなくてもがっかりするようなことはしなくてよい。
また、相手がお手つきしたときに「ラッキー」などとはしゃぐことは不要だ。むしろ、さりげなく、ため息をつくとよい。「好ゲームに水をさしてくれましたね。」くらいのテイストが、そのため息に乗せられればたいしたものだ。
「自分に都合よく考える。」
そして、その正の方向の思考を自分のエネルギーに転換する。この条のポイントはここにある。
第2条 守って取っても、取りは取り。1枚減らしたことを誇るべし。
「攻めの重視」は、十箇条の第4条で「表」の項目として書いているが、重視したからといってたやすく取れるものではない。
最近の初心者への指導は、極端に「攻め重視」である。そういう環境で育ってきた選手は、いつしか「攻め」=「善」、「守り」=「悪」のように勘違いしやすい。(Breakthrough考(4)参照)
自陣の札を守って取った場合、自陣から敵陣へ札を送ることはできないが、自陣から一枚札が減ったことは事実なのである。そして競技かるたは、自陣の札を相手より先に「ゼロ」にするゲームなのである。(十箇条の第3条参照)だから、守って取っても、もっと胸をはっていいのである。
「守っても一枚札が減る。」この事実が大切なのだ。だから、札を取ったことは、攻めであっても、守りであっても誇ればよいのだ。
「自分の取りを誇る。」
そして、その誇りを感じる正のエネルギーを自分の中で増殖させる。この条のポイントはここにある。
第3条 遅い取りを恥じるべからず。
「あっ! 遅かった。」とか「遅いっ!」などと言いながら、札を取る選手がいる。取れなった相手の選手には、嫌味にしか聞こえない。真面目な選手だったら、そんな遅い相手に取られた「やるせなさ」を感じるかもしれない。
ここで言っているのは、「遅く取ったら、『遅い』ということを言え。」と言っているわけではないことを、まずご理解いただきたい。むしろ、遅く取った選手は、そんな余計なことを言う必要はないと言いたいのである。
かるたは、相手より”相対的”に早く札を取ればいいのである。だからこそ、「後の先」なる取りもある。(十箇条の第6条を参照。相対性については、対技者論とかるたの本質論(3)を参照)
絶対的スピードが遅くとも、相手より早く札を取ったことを、自分自身の中で「Good Job!」と静かに自分で自分を褒めればよいのだ。(団体戦だったら、遅かろうがなんだろうが、仲間が「××さん、ナイス!」と掛け声をかけてくれる。)
「早く取っても、遅く取っても1枚は1枚。」第2条と同じである。「取った」という事実が大事なのだ。
「自分の取りを自分で褒める。」
試合中に反省など必要ない。ただ、前を向いて前進するだけだ。自分を褒めた正のエネルギーをさらに推進力に変えていく。この条のポイントはここにある。
第4条 札の出は、確率論より自己都合と妄信せよ
これは、十箇条の第8条との明らかな自己矛盾である。筆者の立場からすると突っ込まれどころ満載である。
確率論が厳然としてあることは、火を見るよりも明らかであり、十箇条の第8条は間違いないし、ゆらぐことはない。しかし、これを前提に本条があるのである。
「あの札が次に読まれそうだ」という閃きは、実は「あの札が次に読まれてくれれば、自分に都合がいい」という気持ちが勝ちすぎて、真の閃きではなく願いというか要望として、心に浮かんでくる。それを勝手に「閃き」と誤解している場合が多い。
そうではあるが、それが万一、あたったらどうだろうか。
この流れを自分のものにしない手はないだろう。
確率論があろうがなかろうが、自己都合で浮かんでくる「閃き」なる要望を根拠なく信じてみよう。
これが、ふたたびあたったらどうだろうか。
このあとの出がどうであろうが、この勢いは止まらない。(実際には勢いが止まることはありえるが、ここでは言及しないことにする)この閃きが当たった感は、高揚感となり、試合の中で、自分のエネルギーに変化していく。
確率論的にも十箇条の第8条的にもナンセンスではあるが、妄信の世界なのである。妄信だから、根拠がなくて当たり前である。しかし、時としてこの妄信の力が、試合の勝敗を決することもあるわけである。冷静になることも必要ではあるが、心が高揚しているときのほうが、普段出てこない能力を引き出すことがあるのも、また否定できない。
この自己都合を閃きと誤認識するパターンは、双方の札が減ってきた状態のほうが起こりやすい。対象となる場の札が減ってきて来ているのだから、分母が小さくなるのだから確率論的にも当たり前だ。終盤の連取は、試合の中でも大きなポイントである。自己都合で優先順位をつけ、それが当たれば「"閃き"は我にあり」と勝手に思い込み、しかも連続でもしようものなら「流れも勢いも、すべて自分のほうに来ている」と都合よく解釈し、「この試合はいけるぞ」と心を高揚させる。
この高揚感で試合終盤の疲労感もふっ飛ばし、札を取るエネルギーとして炸裂させる。この条のポイントはここにある。
第5条 敗戦に自己責任を感じることなかれ。
原則論でいえば、勝利にしても敗戦にしても、結果は自分が行ってきたことの帰結としての一つの表象である。この結果を他者に負わせることはできない。したがって、この結果に対しての責任は自分自身にあると言って間違いではない。
しかし。
しかしである。
私はあえて、ここで、「敗戦に自己責任を感じることなかれ」と書かせてもらった。要は「俺の負けは、俺のせいじゃない!」と言っているようなものだ。普通の感覚だと、「そんな馬鹿な!」である。それでも、ここにこう書いた理由を以下に述べたい。
第1条から第4条までで書いてきたことは、基本的に「自分に都合よく考える」という方法で、負のエネルギーを生じさせずに、正のエネルギーを発生させて、そのエネルギーを増殖させ、試合に臨むエネルギーに変化させていくということである。
そうであれば、たとえ敗戦したとしても、それを負のエネルギーにしてはいけない。特に団体戦などでは、チームとして戦うのだから、チームの中でひとりでも負のエネルギーを持っている選手は望まれない。負けたとしても、自己責任を感じてはいけない。
だいたいは、「札の出が、相手に取ってよかった。」「相手につきがあった。」「たまたま、相手が絶好調だった」くらいの感じで、敗因は超自然的な要因にしてしまえばよい。そして、プラスに考える。「さっきは相手につきがあったが、今度は自分の番だ」と思えばよい。「きっと自分に有利な札の出になるにちがいない。」「きっと自分につきがくる。」「きっと絶好調の波が自分に来る。」くらいのプラス思考でいこう。
厳密な意味での敗因分析は、日を改めて行い、次に活かせばよいのだ。日を改めて分析しようとして忘れてしまっているような敗因は、別段思い出す必要はない程度のものなのだ。
仲間と個人トーナメントに出て、仲間より早く負けてしまったときは、仲間に負のエネルギーを感じさせるようなことをしてはいけない。
すなわち、落ち込んでいる様子などを見せてはいけない。この思いも、すでに書いたような感じで受け流しておこう。
悔しくて泣くのも、敗因を分析するのも、日が改まってからすればよいのだ。仲間といるときは、常に正のエネルギーを意識してふるまうようにしよう。そのためには、「次にはきっといいことがある」という発想でふるまうことである。すくなくとも、その日のうちは、自分の敗戦に自己責任は感じないでおこう。
さて、日が改まって、敗因分析をやら何やらをする。この時に、反省はしても後悔はしないでほしい。本条の解説の冒頭に書いたが、結果は自分がおこなってきたことの帰結である。後悔をするような過程を経ることは良いことではない。後悔のない行為の上の帰結である結果を受け止めるのである。それゆえに、反省はしたとしても後悔はしないでほしいと書くのである。
では、この後は、どうすればいいのだろうか。
分析した結果等を練習に活かして、実力向上に努めればよい。そして、次に試合に臨むときには、「万全の準備をした」「"つき"は今度は自分に来るはずだ」「コンディションはばっちりだ」とプラスの思考で、自身の正のエネルギーを高めていこう。その高めたエネルギーを試合で発揮する。この条のポイントはここにもある。
最後に五箇条を大きくとらえてみよう。
第2条と第3条には共通性を感じていただけると思う。両条をあわせて一言で言えば、「どう取っても、取りは取り!」ということである。札を取ったという事実を強く肯定することによって、正のベクトルを発生させようという意図である。
また、第1条と第4条の底に流れているのは、「送り」や「狙い」(取りの優先順位付け)において、「リスクを負ってもリターンを取れ」ということである。「ハイリスク、ハイリターン」とは、よく聞く表現だと思うが、これを意識しすぎると、どうしても、リスクを恐れる思いが出てきてしまう。いったん、リスクを考えると負のベクトルが働き始める。この負のベクトル働かさないための、心理的な仕掛けが第1条と第4条の共通のポイントである。
第5条は、第1条と第4条の「リスク&リターン」論とは違うが、負のベクトルから個人ならびに団体を防御するための心理的な仕掛けという点では、共通である。
ベクトルとか、エネルギーとか、表現は異なるが、大意を理解していただければよいと思う。「負をおさえ、正をのばす。」という構図をこの五箇条から感じ取ってもらえれば、著者としては満足である。
いかがであろうか?
相当無茶な理屈と思われただろうか。それでもかまわない。この五箇条を読んで、正のエネルギーのスパイラルをつくってくれる実践者が、たとえわずかであってもいてくれさえすれば幸甚に思う。
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